2018年1月28日日曜日

クラブ・デ・トラント以前の東京のレストラン



クラブ・デ・トラントが結成されたのは
1980年のこと。
少しその前の東京を中心としたレストラン
事情を見てみる。
あまり遡るのも考えものなのだが、
洋食料理店は明治期からあるが、
戦後か当たりの事情から。





ホテルや会館系は、進駐軍によって接収された丸の内ホテルや帝国ホテルなどがあり、接収解除になるのは1952年以降のこと。
街場のレストランは、イタリアンの方が早く広まっていて、(イタリアレストラン興亡物語もその内に)。本牧に「イタリアンガーデン」(1950年)、フレンチでは同年銀座「エスコフィエ」が開店している。
これは、やはり進駐軍相手のレストランとしてなのだ。
1953年は「グリル満天星」、1955年イタリアン「シシリアン」フレンチでは日比谷に「南部亭」翌年は「ニコラス」が出来ている。
1957年には帝国ホテルでバイキングが始まり、1958年には六本木の「アントニオ」が開店。アントニオは戦時中イタリアから日本へ向った軍艦が、イタリアが連合軍に降伏したので、神戸で抑留されたアントニオが戦後マッカーサー元帥の料理人になり、その後レストランを作ったのだ。
ハルコが昔勤めていた事務所の並び(西麻布から六本木)にあり、いつかアントニオで食事をする“身分”になりたいと思っていたが、確かその並びには「西洋膳所ジョン・カナヤ」(1971年)もああった。
そして、60年安保の時に開店したのがその後の六本木カルチャーの発信地になった「キャンティ」がオープン。
東京のレストランの発達には、1964年の「東京オリンピック」と、1970年の大阪での万博の成功がひとつのキーワードになっているのは間違いがないだろう。旅行の自由化と海外からの日本へくる客の需要の増加で、
1970年代は帝国ホテルが「フォンテンブロー」、ホテルオークラが「ラ・ベル・エポック」を開業し、いよいよ日本のフランス料理の幅も奥行きも出始める。

そして、1960年代から海外に修行に行っていた料理人が帰国して、各地のホテルなどで活躍をはじめた。
銀座「レカン」などを経て恵比寿に「ドゥ・ロアンヌ」を開業した井上旭、六本木「オー・シュヴァル・ブラン」の料理長に鎌田昭男、六本木「ロテュウス」石鍋裕、「ラ・マーレ・ド・チャヤ」熊谷喜八、「ビストロ・ラ・シテ」勝又登、「アピシウス」高橋徳男、銀座「レカン」城悦男、「ヴァンセーヌ」酒井一之とキラ星のごとくスターシェフが出てくるのだ。
(続く)
ハルコの活動はFBからも。
https://www.facebook.com/?locale=ja_JP

2018年1月25日木曜日

再び、クラブ・デ・トラントの時代 



時代は1970年の半ばで、狂乱のオイルショック騒動があった時代である。
その時代に就職したデザイン事務所で、『家庭画報』のレイアウトマンとして働きはじめていた。





雑誌は巻頭に料理の特集を組み、新しいレストランの紹介も多かった。
やがて、フリーのデザイナーとして独立をして、1年ほど『家庭画報』編集部に
席を置き同誌のデザインを担当していた。
その頃、ヨーロッパの各地のレストランで修行を終え若い料理人達が、
続々日本へ帰国していた。
『家庭画報』でも、帰国した料理人たちが登場し、新しい感覚の料理で誌面を飾った。

1981年発行の『饗宴』第4号(季刊で五冊で廃刊)に、
四谷の迎賓館を背景に12人のトックコートに身を包んだ30代の料理人たちが
腕を組んでいる写真が掲載されている。

そこに書かれているのは、

「ホテルから街場のレストランへ、
最近のフランス料理の流れはしだいにこのようになりつつある。
本国でのヌーヴェル・キュイジーヌに呼応するかのように、
日本でもフランス料理を若返らせた街場の料理人たちがいる。
30歳以上のシェフ(たち)が集まったオーバー・サーティのメンバー16人。
かれらの目指すところは、たんなる同業の連帯だけではない。
高品質の魚、肉などの共同仕入れから、
ゆくゆくはフランスワインの買い付けまで広がる。
フランス料理の未来にとって、かれらに寄せる期待は限りない。」

これが、「クラブ・デ・トラント(Club des Trente)」と呼ばれるグループの
始まりである。
クラブ・デ・トラントは、海外(主にフランス)で修行した料理人たちが
1970年代後半から帰国した30代の料理人の会だったが、
30数年の月日が経つと現役引退したり、会長の高橋徳男さん(2009年)も
亡くなってしまい、段々その当時の証言者がいなくなる危機感を抱いている。

クラブ・デ・トラントの存在は日本にフランス料理の定着を果たすとともに、
料理が文化であることを認知させ、スターシェフを排出し、
後に続く若手シェフたちの道標にもなったのだ。

季刊『饗宴』第4号(婦人生活社)1980年 9月30日発行
写真右から(カッコは当時のレストラン名)
吉野好宏(ジャンドマルス) 石神和人(ベル・フランス) 酒井一之(ヴァンセーヌ)
井上旭(ドゥ・ロアンヌ)  秋山茂夫(サンマルタン)  高橋徳男(ラ.マレ)
鎌田昭男(オー・シュアヴァル・ブラン) 青木亨(イゾルデ) 坂井宏行(ラ・ロッシェル)
熊谷喜八(ラ・マレー・ド・チャヤ) 城悦男(レカン) 寺島雄三(楠亭)
※写真にはいないメンバー/石鍋裕(ビストロ・ロテュース) 扇谷正太郎(エヴァンタイユ) 佐藤健二郎(シャトー・リヨン) 勝又登(ビストロ・ラ.シテ/オー・シザブル)

この時代の料理人たちの軌跡を今年こそは残す必要があると思って活動を開始したい。
不連続で「再び、クラブ・デ・トラントの時代」を発信する予定。

ハルコの活動はFBからも。
https://www.facebook.com/?locale=ja_JP

2018年1月21日日曜日

料理番組の生まれた日



このブログでも何度か書いたが、1月21日は「料理番組の日」なのだ。
朝から深夜まで料理をテーマにした番組が何と多いことか。
昔は地上波と限られたテレビが、BSやら多チャンネルになり、
本当に料理番組があふれんばかりだね。



歴史的に、日本ではNHKの『今日の料理』が1957年11月4日の放送開始だが、
最初の料理番組はイギリスのテレビが発祥なのだ。
1937年1月21日にBBC放送で始まった『夕べの料理』という番組が、
テレビを通して初めての料理番組だったそうな。
しかし、1937年!? この頃にテレビ番組があったんだ!
調べてみると、BBCが試験放送を経て本格的にテレビ放送を始めたのが、
前年の1936年11月2日で、ほぼテレビの創世記から料理番組はあり、
そして、第二次世界大戦が勃発して中断し、終戦後の1947年6月7日に
再開され、最初の「料理番組」の料理は「オムレツ」。

その時の番組の料理人はマルセル・ブルースタン(Marcel Boulstin)という
フランス料理の料理人。
このマルセルは1878年生まれで、番組に出た時は59歳、1911年にロンドンのコヴェント・ガーデンでレストランを開店し、
大変人気の店だったよう。(戦争中の1943年に65歳で亡くなっている)
マルセルのモットーは「シンプルフレンチ」だそうで、
現在にも繋がるフランス料理の先駆者なのだ。
ちなみに1963年の1月21日は、日テレの『3分クッキング』が開始された日で、
さらに古くは、1954年に宝酒造が『タカラお料理帖』という番組を提供しており、
これが日本での最初の料理番組らしい。

小学校1年の時にわが家にテレビがやってきた。
家に帰るとテレビの入っていた木箱(木箱でずぞ!)がどーんと玄関に置いてあった。
テレビ自体の成りは家具の様に大きいが、
画面は小さい14型で絹織物のカバーがかけられていた。
家で初めて観た番組はNHKの「今日の料理』で料理の先生は江上トミ。
もしかしたら、この番組がハルコの料理の原点なのではと思う。

ハルコの活動はFBからも。
https://www.facebook.com/?locale=ja_JP

2018年1月19日金曜日

始末の哲学するハルコ



ハルコが料理をする時にいつもオクサマに
叱られることがある。
食材の本体よりも、皮等のあまり可食しにくい
部分を先に使うことだ。













国連食糧農業機関(FAO)の報告では、
世界で生産される食料のうち約1/3にあたる約13億トンが廃棄されていると。
また、日本でも年間1900万トンの食品廃棄物が出ており、
これは世界の7000万人が1年間食べていける量なのだそうだ。
家庭における食品ロスの内訳は(消費者庁の調査・2013年)、
1人1日当たりの食品ロス量(41g)のうち
過剰除去(55%)、直接廃棄(18%),食べ残し(27%)。
食べ残しは、料理を作っても食べられないで廃棄されたもので、直接廃棄は、
賞味期限等が過ぎたりして捨てられている食品のことだが、
半分以上占めている「過剰除去」となんなんだろうか?

これは、調理途中で食品を加工している際に出る廃棄品で、
例えば、ダイコンやニンジンの皮をむいて皮を捨ててしまう、
これが、「過剰除去」の正体なのだ。
昔から、東京と大阪の家庭の台所から出る生ゴミは大阪の方が圧倒的に
少ないというデータがある。
伝統的に大阪や関西の方が「始末」に長けているからだとも言われている。
「始末」というと、「始末する」「始末におえない」など、
一見マイナスなイメーのようだが、
「物事の始めと終わり。始めから終わりまでの細かい事情、または成り行き」
「ある物事の最終的な状況。
特に、よくない結果」「物事の締めくくりをつけること。
後片付けをすること」「浪費をしないように気をつけること」という意味が有り、
『商家の家訓』(徳間書店、吉田豊氏編訳)の中でも、
「始末とは、『始』と『末』、すなわち、始めと終わりのことで、
『経済活動における一貫した計画性』というのが本来の意味だった」と
語られているように、計画と結果を合わせる、
計画性と無駄を省く合理性、そして質素と倹約の哲学までをさすのある、と。


オクサマ談。ハルコは始末が出来ない!

※写真は非可食部分を使ってベジブロス。

ハルコの活動はFBからも。
https://www.facebook.com/?locale=ja_JP

2018年1月18日木曜日

すしのタネとネタ、どちらが正しいのか?

書籍を制作する際には、
本文の文字統一を必ず行う。

1冊の本の中で同じことを言っているのに、
言葉(文字)が違うことにより読者を
混乱させないためでもある。

NHKBSプレミアムで
伝説のすし職人、藤本繁蔵のドキュメント番組を
観ていた時にちょっと違和感を感じた。

番組ではすしのマグロやコハダの材料を
「タネ」と言っていたが、
藤本繁蔵のゆかりの方々が「ネタ」と言いテロップにも「ネタ」と表記されていた。



重箱の隅を突く様な話だが、番組には「タネ」「ネタ」がバラバラに出て来て
一瞬どちらが正しいのかと混乱してしまった。
表記的に正当なものは「タネ」だが、すし職人の隠語として逆に置き換えて
「ネタ」と言うようになったことは承知している。
隠語であった「ネタ」が一般に認知され「タネ」「ネタ」とふたつの言葉が
使われるようになるのは「二重語(にじゅうご・doublet)」という。

最初の書籍の用字用語の統一の際にこの二重語が登場する際は、(原文ママ)とかと
表記しこれは、誤記ではないと記載するルールがあるのだ。
藤本繁蔵のドキュメント番組の後を続て観ていると「美の壷」も「すし」だった。
ここでも、「タネ」と表記していたが、
項目のひとつの「すし飯」にいきなり「シャリ」と出て来た!
「シャリ」だって、すし職人の隠語なのに一方では隠語の「ネタ」を使わず「タネ」と。

校正者なら突っ込みたい所である。
(※写真は谷中松寿司・野本さん)

ハルコの活動はFBから