2016年3月23日水曜日

ぬか喜び


いったん喜んだあとで、実はあてがはずれて
がっかりするような、空しい喜びのことを
「ぬか喜び」というのはご存知だと思います。

まぁ、玄米を精製して生じる種子などの
砕けた粉なので、
微細なものという意味で使われていますが、
なんで「ぬか」なんだと思うわけです。

この「ぬか喜び」という言葉は
10世紀前後からあるようで、
その当時はまわりに(目に見える)
あまり適当な微細なものが無かったんですね。

ぬか漬けは江戸時代頃から始まり、
10世紀頃にはまだ、ぬか漬けは無く、
塩、酒粕、もろみ、味噌に
漬け込んでいたののです。
それが、ぬか床で連続して漬け物が出来るようになったのは
画期的な発明ですね。

ぬかで漬けた野菜はビタミンB1で脚気の予防にもなるし、
そんなことがその当時判っていたら「ぬか喜び」なんて言われてないと思うのですが。

さて、わが家でも長年、ぬか床を使った「ぬか漬け」を実践しているのですが、
その肝心の「ぬか床」を何度も、何度もダメにしているのです。

毎日、一度は搔き混ぜないとと思うのですが、
ちょっと出張で留守にしてぬか床の存在を忘れていて気がつくと、
”白カビ””青カビ”が発生する始末です。

今までは、ぬかから真水に塩水と一からぬか床を作っていたのですが、
今回は最初から「熟成ぬか床」を使うことにしました。

忘れなければ良いのですが、「毎日、ぬか喜び」したいものです。

ハルコの活動はFBから

2016年3月16日水曜日

日々是甚六。富ヶ谷


1974年表参道で開業した「甚六」が昨年末入居しているビルの建て替えで閉店いたしました。

表参道交差点から徒歩1分の近さと、表参道らしからぬ店で長年多くのファンに愛されました。
昨年から移転先が二転三転しましたが、3月15日より富ヶ谷で再スタートしました。

以前の店の名残は、木のカウンターと黒板くらいで、若干狭くなりましたが、半地下のオシャレな店になりました。
表参道時代は事務所もすぐ側で、「わが家の居間」代わりに使ってましたが、事務所も代々木上原に移転した後に、「甚六」の永谷親子に移転するなら、近所に来てとお願いしたら、本当に近所に来てくださいました。

おっと、少し責任感じてます。

最寄り駅は
千代田線代々木公園駅と小田急線代々木八幡駅で、渋谷から東急百貨店方向の最近人気の「裏渋谷」です。
東京都渋谷区富ヶ谷1-14-11 「甚六」
電話 03-3467-0633
定休日は日祝日で、
月土は18時~24時(フードラスト22時半)
火~金は18時~5時(フードラスト3時)

御贔屓のほどよろしくお願いいたします。
※写真は永谷親子です。

ハルコ

2016年3月12日土曜日

311とトモダチ作戦


アメリカ海軍にアーレイ・バークという軍人がおりました。
アーレイ・バークはアメリカ海軍史上でただ1人、海軍作戦部長を3期6年にわたって務めた人でした。
太平洋戦争中、駆逐戦隊の司令官となり、ブーゲンビル島上陸作戦の支援に当たり、日本海軍の巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など多く撃沈破しました。


戦後、大西洋艦隊司令長官となったミッチャー大将の参謀長を務め、朝鮮戦争が勃発すると、アーレイ・バークは極東艦隊参謀副長として日本へ派遣されたのです。
太平洋戦争を通じて、アーレイ・バークは日本が嫌いで反日的・嫌日的な態度を取っていたのですが、あることがきっかけで親日家になったというエピソードが残されているのです。
朝鮮戦争の和平交渉のために東京へ赴任して帝国ホテルを定宿としていたのですが、日本人に対して頑に交わろうとしませんでした。
ある時、ホテルの部屋に花が飾られており、アーレイ・バークは余計な事はするなとホテルに抗議すると、ホテル側は知らないとの返事。
花が枯れるたび、新しい花に代えられていき、アーレイ・バークが調べていくと、客室係の女性が個人的に花を買っていた事が判明したのです。
感謝してアーレイ・バークは花の代金を支払おうとしましたが、女性は受け取ろうとしませんでした。
彼女は戦争未亡人で、夫はソロモン海戦でバークによって沈められた駆逐艦の乗組員だったのです。
「私はあなたの夫を殺した人間だ。どうか許して欲しい。」と謝罪しましたが、彼女は「悪いのは戦争です、何もしなければ死んでいたのはあなたです。あなたは何も悪くありません」と答え、それ以降、親日家になったという逸話があったそうです。

その後アーレイ・バークは日本の海上自衛隊の創設にも尽力し、日本からは旭日大綬章を授与され、この勲章は遺言により棺にただ一つだけ納められたそうです。

そして、2011年3月11日の東日本大震災で「トモダチ作戦」で、
日本にいち早く到着した空母「ロナルド・レーガン」の艦長トム・バーク大佐は
アーレイ・バークの孫に当たるのです。

東日本大震災で復旧、復興に尽力された方々に感謝をこめて。

※写真は鵜住居根浜海岸(宝来館前から)

2016年3月10日木曜日

平田勝さんのこと

ブログをずいぶんさぼってました、

3月9日に平田勝さんの訃報が届きました。
お具合はあまり良くなかったようですが、まだ、享年65歳とお若く残念です。
1988年に麻布に「クッチーナヒラタ」がオープンした週から1年で50回ほど通いました。
ハルコにとって料理の世界を導いてくださった方が幾人かおります。
これは、まだ料理の世界をよく知らない時に、教えていただいたということもありますが、より深く興味を持ちその世界に没頭したということです。

フランス料理は「ヴァンセーヌ」の酒井一之さん、日本料理は「分とく山」の野崎洋光さん、中国料理は「メゾン・ド・ユーロン」の鈴木訓さん、そして、イタリア料理が「クッチーナヒラタ」の平田勝さんなのです。
1988年というと昭和から平成に変わる前年で、この年に「日本イタリア協会」が設立されているのです。
1980年から東京のイタリアンシーンを見ると、平田さんがシェフを勤めていた「ラ・パタータ」がオープンし、以降「ジーノ」「グラナータ」「アル・ポルト」「リストランテ山崎」「トゥリオ」と現在に繫がる名店が誕生してイタリア料理ブームが起きた時代だったのです。
ハルコはイタリアの宗教美術に興味がありイタリアに行き始めた頃で、行くなら美味しいイタリア料理も食べてみたいと思い、「クッチーナヒラタ」に行くたびに平田さんから、イタリア料理のメニューの読み方や、食べ方を教わっていたのです。
ある時はパスタばかりを5種類コースにして食べさせてもらったり、ビフテッカ・アラ・フィオレンティーナを骨付きで3キロ焼いてもらったり、オーヴォリ(きのこ)を初めて食べさせてもらったのも平田さんの所でした。
そしてマダムの千恵子さんが、今日こんなワインがあるのよと「サッシカイヤってワイン知ってる?」と飲ませていただいたのが82年物で8千円ほどでしたが、今やこんな値段では飲む事は不可能ですね。
平田さんの凄いのは、多くの優秀な料理人を育てて輩出したことでもあります。
鈴木弥平さん、石川勉さん、岡村光晃さん、野田武十さん‥‥‥。
みなさん実力も人気のあるシェフ達です。

一度引退した後に広尾の「ちいさな台所ひらた」を開かれて、幾度か訪れました。
平田さんはお元気そうでしたが、マダムの方が身体が辛そうでした。
ハルコの「青唐辛子パスタ」好きのルーツは平田さんのパスタが原点なのです。
一時代を築いた名シェフ平田勝さんの意志は多くの後輩が繋ぐと思います。


心よりご冥福をお祈りします。
ハルコ