2015年4月30日木曜日

クッキングパパ30周年1985年


毎週木曜日は『週刊モーニング』の発売で、毎週楽しみに読んでおります。
今週は連載マンガの「クッキングパパ」が30周年の巻頭特集でした。
昨年ある会で原作者の”うえやまとち”さんにお会いしてたのです。
30年間ず~っと同じテーマで描かれているのって、すごいですね。
しかし、登場人物の荒岩一家も子供達が成長し、会社の頼りなかった部下も結婚し有能な営業マンになったりと、読者もキャラクター達と同時に歳を経て行き、共感を呼ぶ当たりが長く愛読されている理由ではないでしょうか。
実際に30年経て行くと主人公の荒岩課長は、もう定年を迎えている時期ですが、
まぁ、マンガですから。

その『クッキングパパ』はじまった30年前に何があったのか、いや、色々ありましたね。
この年に映画の『バック・ザ・フューチャー』が大ヒツトしたので、遡ってみましょう。

大横綱北の湖が引退、ソニーから8mmビデオが発売(ハルコも買いました)
電電公社がNTTになり、初めてのショルダーフォーンが発売(肩掛けの重たい移動電話)!
一度某イタリアンでテーブルの上に忘れていたのを見た事があります。あんなにでかいのにね。

まだ、まだ、「おニャン子クラブ」、松田聖子と神田正輝結婚、つくば博、ゴルバチョフソ連共産党書記長就任、タイガース日本一、
そして、御巣鷹の日航機墜落事故、8月12日でしたが、ある会社にキャンノンの新製品のために販促企画のために打ち合わせに行っていた日でよく覚えてます。
その商品はスチールビデオという商品で、写真機の様な(まぁ、カメラです)装置にコード付きの小型受像機を付けると写真がその場で観れるという画期的な商品でした(笑)。
今ならデジカメやスマートフォンですが、その当時は、まだ、そんな装置を使う事は夢の世界でした。まだ、パソコン自体が普及していなしいし、ネットなんて影も形も無い時代でした。

『クッキングパパ』は1985年5月16日発売からスタートしました。
同じ年にハルコの事務所オフィスハルは5月10日(ゴトー)に会社登記しました。

30年はあっという間ですね。

2015年4月28日火曜日

こんにゃく問答


連休直前というか、もう連休中の方もいらっしゃるようですね。
ハルコはというと特に予定はなく、仕事したり休んだりという感じです。
連休初日のの4月29日は昭和の日ですが、
いまだに「昭和天皇の誕生日」という方がしっくりくるのです。
さて、この日は「こんにゃくの日」でもあるのです。


八五郎さんてぇご仁が、田舎の村のこんにゃく屋で世話になり、村の空き寺の和尚になった所から始まるのが、落語の「こんにゃく問答」でございます。

この寺へ、永平寺の諸国行脚の雲水の僧が問答に参ったのです。
そして、こんにゃく屋のご主人六兵衛さんがにわか和尚になり、雲水と問答を始めるのですが、何を聞かれても黙ったままで、相手の僧は無言の行と勘違いしてしまい、両手の親指と人差し指で自分の胸の前に輪を作って前へ突き出しました。
すると和尚に扮した六兵衛さんへは両手で大きな輪を作って見せたのでございます。
相手の僧は「ははっ!」と平伏いたしました。

次に僧は、今度は10本の指を前に突き出し、六兵衛はそれを見ると5本の指をぐっと突き出した。またまた相手の僧は平伏するのでございます。

次に、僧は3本の指を立て前に突き出しますと、六兵衛さんは目の下に指を置き大きく「あかんべえ」をいたいました。すると相手の僧は恐れ入って平伏し、逃げるように立ち去ったのです。

帰りぎわに八五郎が、僧に問答はどっちが勝ったのか聞きますと、自分の負けと言ったのです。
何を聞いても黙っているので無言の行だとと悟り、「和尚の胸中は?」と問うと、「大海のごとし」という答え。
「十方世界は」と問えば、「五戒で保つ」との仰せ。
もう一問、「三尊の弥陀は?」と問えば、「目の下にあり」という答だというのです。
到底、愚僧の敵う相手ではないので、修行して出直してくると言い、逃げるように退散したのですが、こんにゃく屋の六兵衛さんは怒っていました。

こんにゃく屋の六兵衛さん曰く「今のは永平寺の僧なんかじゃない、ここいらをうろついている、ただの乞食坊主だ」と。
「俺がこんにゃく屋の親父だとわかったもんだから、おまえの所のこんにゃくはこれっぽっちだと小さい丸をこしらえて、手でケチをつけやがった。俺の所のこんにゃくは、こんなに大きいと手を広げてやると、今度は10丁でいくらかと値を聞いてきたので、
五百だって言ったら、しみったれ坊主が、三百に負けろっていうから、あかんべえをしたんだ」と言うのが「こんにゃく問答」で、ハルコはこの噺が大好きなのです。

このブログは2年前の手抜き採録です。
写真は金沢の「黒百合」のこんにゃくおでんです。

2015年4月20日月曜日

ビールクズの原点!


ハルコは普段から「ビールクズ」と尊敬(?)されてます。
これは、ネットで使われている用語らしくご存知無い方のために解説をいたします。
「昼からビールを飲むような人間のクズ」という意味が「ビールクズ」で、「朝からビールを飲むような人間のクズ」は「スーパービールクズ」と言われているのです。
ハルコは出張で新幹線に早朝に乗る時に、お弁当と一緒にかかせないのがビールです。

昔、某所のスナック(スナックですよ)で、店の常連である出版社の方々と親しくなりました。そのうちの一人と朝食になにを食べるかかという話をしていました。
すると、「朝ご飯はマグロの刺身にビール」と。
「えっ、朝からビール飲むんですが?」
「そう、朝風呂に入ってから、毎朝6時にマグロとビール」
ハルコはまだ、20代だったのですが、その方を尊敬するようになりました。
朝からマグロを食べてビールを飲む、こんな大人になりたい!
これが、ハルコのビールクズのルーツなのです。

昭和8年の4月20日は、馬越恭平の命日なのです。
馬越恭平は、明治時代にビール業界の合併問題で、それぞれ、各メーカーが厳しい市場競争で日本麦酒の経営危機が改善しないので、渋沢栄一や当時の内閣に働きかけ「国内の過当競争排除と輸出の促進、 資本の集中化を図るための」合併勧告を引き出したのです。
そして、1906年(明治39年)、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の3社を合併し、大日本麦酒株式会社が設立されると社長に就任したのです。
その後、大日本麦酒は市場占有率を79%までに高め、馬越恭平は「日本のビール王」と呼ばれのです。
この大日本ビールは、現在サッポロビールとアサヒビールに分かれてますね。

今日は、朝昼ビールは飲んでません。
「えっ、夜だとハルコは、単なるクズだって!余計なお世話です」

2015年4月16日木曜日

戦場の料理人


以前からハルコの知識の90%はマンガだと豪語(?)していました。
今朝も通勤中に木曜日発売の『週刊モーニング』を熟読しておりました。
今週の「グラゼニ(野球マンガ)」はどうなったか?とか、読んでいると
「黒博物館 ゴーストレディ」というマンガに思わず(!)となりました。

まぁ、このマンガを説明するのは面倒で省きますが、
簡単に言うあの有名な「フローレンス・ナイチンゲール」をモデルにした怪奇マンガなのです。
世界中から敬愛されたナイチンゲールの物語は、良い子の皆さんなら知っていますね。
イギリスのヴィクトリア時代に勃発したクリミア戦争に従軍看護婦を率いて「白衣の天使」と呼ばれてた偉人で、ハルコも幼少のみぎりに読んだものです。
まぁ、だいたい子供の時に読んだ偉人伝はその後大人になり、読み返したりすることは無いですね。

しかし、マンガで新たに大人になって読むとまた、面白のです。
さて、ナイチンゲールが従軍して戦場での劣悪な病院を改善して行く過程で、食事があまりにもひどく、生煮えの肉やそのまま出される乾燥豆(ナイチンゲールがくる前はもっと悲惨だった)を病人が食べていたのですが、ナイチンゲールの要請で、イギリス政府の内閣の陸軍大臣パンミュア卿に全権を委任されたシェフが派遣されてきたのです。
その名はアレクシス・ソワイエ。
現在の感覚でいうと、星付きシェフが突然野戦病院のシェフになったのようなものです。
ロンドンのクラブでフランス人料理長として有名だったソワイエが登場することにより、野戦病院の食事は改善され、患者の具合で調理され栄誉状態もよくなり、兵士達の死亡率も減少したそうです。
このアレクシス・ソワイエの事は全くこのマンガを読むまで知りませんでした。
イギリス料理は不味いという先入観で、ろくな料理人はいないと思っていたのですが、フランス料理の歴史でも出てきてない人物ですが、非常に興味を覚えました。
先日、ジョン・ファヴロー監督の映画「シェフ」を観たばかりですが、この人物を主人公にして映画を作っても面白だろうなと、思ったハルコでした。

※写真は『モーニング』(講談社)4/30藤田和日郎『黒博物館ゴーストレディ』より。





2015年4月15日水曜日

頭で食べるか、胃袋で食べるか。







代々木上原に引っ越して1ヶ月半が過ぎてだいぶ環境にも慣れて落ち着きました。
時間が許す限り代々木上原の料理屋さん巡りをしていますが、この地域は沢山の飲食店があり当分探訪は続ける予定です。


最近自分の「味覚の幅」がどんどん狭くなって来ていると自覚しているのです。
味覚は年齢とともに変化します。幼少期からだんだん大人になるに従い味覚の幅が出来て、新しい味覚を受容してきますが、ピークを迎えると、だんだん幼少期の頃の味覚へと退行していくらしいですが、まさに、今のハルコです。
食をいささか仕事ににしている身としては、大変困ることなのです。
自分の好き嫌いとは別に新しい未知の味に対してどう、興味を持って維持するかが重要なのですがね。

食べる経験や体験は、知識の積み重ねで個人での判断基準がどこにあるのかが問題です。
普段食べるときは、意識しなくても、大雑把に言うと「頭で理解」するか。「胃袋で理解」するかだと思っています。
口に食べ物を入れ前に、眼で見て、匂いを嗅ぎ、舌で味わい、咀嚼して胃袋まで送りこむ、場合によっては尾篭な話ですが、排泄されるまでが一つのストーリーです。
先日もあるレストランで食事をしながら、匂いや味を分析している自分がいて、これは長年の習慣というか、病気だなぁと思う次第です。
決局、長年食べ物を頭で食べているのですが、だんだん面倒になってきたこの頃です。
しかし、胃袋だけで食べるには歳を取りすぎているし、最後は心で食べるのでしょうか?
なんてことをぼんやりと考えているハルコでした。

2015年4月1日水曜日

落語と弥助

4月になりましたね。

新年度の始まりですが、先月は出張続きでブログも休み勝ちでした。
先週末から3日間で北陸新幹線の開通した金沢へ出かけてました。
東京から本当に近くなりましたね。
お弁当を食べながらビールを飲んでいると、もう長野です。”かがやき”で行くとこんな感じで”はくたか”でも良いかと思う次第です。



今回の金沢の最大の目的は「小松弥助」なのです。
金沢の料理研究家小川敦子さんより、以前から金沢で”弥助”はいかがですかと。
今回は”弥助”に予約を入れてもらってから金沢のスケジュールを組んだのです。
色々な情報を見ると、
「先代の久兵衛の主人が日本一の鮨職人」だと言ったとか。「東のすきやばし次郎、西の小松弥助」……。
非常に高い評価を得ていたのですが、ある出来事で店を畳まないといけない状態になりましたが、その腕を惜しんで、ある方が援助して現在の場所で「小松弥助」を再度開店したのだそうです。
場所は金沢片町のアパホテルの1階。この狭いビジネスホテルのロビーは、開店の11時半前からみなさんお待ちでした。
伝説の鮨職人、森田一夫さんは80過ぎの高齢とは思えないほどの、踊るように魚を切り、鮨を握る。
少しお造りをいただき、まず、一人前五貫を握ってもらう。
赤イカ、炙りトロ、甘エビ、煮はまぐり、梅貝、器に入ったお鮨、そして、うなキュウ。
食べていて、何で旨いのか検討がつかない。随分鮨は食べて来たはずですが、今まで、素材の良さや、下ごしらえの良さ、あるいは、握りの技術……と相当頭で理解していたと思う次第。
小松弥助の素材は飛び抜けて上物でもなく、まな板で包丁で叩いている時は素材がカウンターまで飛び散るしそんなに丁寧でもなく、しかし、なぜ、旨いのか判らない!
その時に頭を過ったのは落語家と一緒じゃないかと。
すきやばし次郎は昭和の大名人、桂文楽、そして、小松弥助は、古今亭志ん生。
端正で一言一句違わない文楽は「すきやばし次郎」で、噺は端折るし、どうなるか先がわからない、志ん生は「小松弥助」。
楷書と崩し文字との違いで、考えてはけない、その場を愉しみ受け入れることこそが唯一の対応の仕方。
もう一度、小松弥助に食べに行かねば。