2015年12月25日金曜日

ひじきの鉄分が減った!?





「日本食品標準成分表」というのをご存知でしょうか?
食材の栄養成分が記載されていて、今度7訂版に改訂されました。
この「日本食品標準成分表」を元に全国の学校や病院の給食、外食産業のメニュー作りに広く使われるものです。
仕事柄この「日本食品標準成分表」は食材の栄養素の数字確認に使用します。

今回の改訂は5年ぶりで、食品数を15年ぶりに拡充し、313品増の2191品目としたそうです。

新たに掲載されたのは刺し身や天ぷらなどの日本食、健康志向を反映した発芽玄米や五穀、アマニ油、アレルギー対策で食べられている米粉パンや米粉めんなどが増えました。
さて、その中で「干しひじき」の栄養素が大幅に変わってたのです。ニュースを見ていたら、

 「鉄分が豊富な食品とされてきた干しひじきの記載も見直した。かつては鉄製の釜で蒸し煮にしていたため鉄分が多かったが、現在の主流であるステンレス釜で作った製品では鉄分が減っている。鉄釜の製品では干しひじき100グラム当たり鉄分が582ミリグラム、ステンレス釜では同62ミリグラムと書き分けた。」

とありました。

いままで、単純にひじきの鉄分は、ひじき自体の持つ成分だと思っていたのです。
そんなの全然知らなかった(無知でした)ハルコです。

しかし、鉄器の素晴らしさも感じました。
何とか来年は南部鉄器で商品開発をしたものです。

ハルコの活動はFBより

2015年12月22日火曜日

食堂車



日本初の食堂車は、1899525日に私鉄の山陽鉄道
(現・山陽本線)が運行した官設鉄道京都 - 山陽鉄道三田尻(現・防府)間の列車に連結した食堂付1等車だったそうです。

現在では、地方を走る鉄道で食事を売りものにする食堂車が
人気のようですね。
思えば、最後に食堂車で食事をしたのはいつが最後か記憶
が曖昧なのです。
揺れる車内で、キリンビールの小瓶を頼み、コップにうまく
入れられなかった記憶があります。

現在ではあまり読まれることのない作家に、獅子文六がおります。
ユーモア小説を得意として『てんやわんや』など人気作家でした。

また、NHKの朝の連ドラ第1回目は獅子文六自伝的な内容のの『娘と私』(1961年)がありました。

ハルコは獅子文六と源氏鶏太が大好きで、ずいぶん前から読んでいました。
源氏鶏太は、『三等重役』から原作がはじまり、東宝映画の「社長シリーズ」になり、
いまだに好きなジャンルなのです。

獅子文六の幻の傑作が文庫本になったのです。
ちくま文庫から『七時間半』というユーモア小説です。

この内容は、東京ー大阪間が七時間半かかっていた時代の特急列車の食堂が舞台なのです。
食堂の東京からの仕込みでコックさんが、

「どうも、東京仕入れは、あかんな」
「そら、関西の肉のようにはいきまへんな」
「肉ばかりではなく‥‥
「魚も明石もの、瀬戸内ものは、日本一だすからな」
「魚ばかりやなく‥‥
「野菜も、何ちゅたかて‥‥

今から、半世紀以上前の時代の雰囲気と風俗が描写されているのです。

小説の内容はご一読願えればと思いますが、獅子文六や源氏鶏太はその時代を描く意味では、
何を食べていたのか,何が流行していたのかの貴重な時代の記録研究のテキストになると思うのです。

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2015年11月30日月曜日

料理の出す順番、食べる順番



ラーメン屋さんで、ビールと餃子にラーメンを頼むとします。
食べる順番はまず、ビールを飲みながら、餃子を食べている間にラーメンを待つのが普通です。

しかし、店の都合でこちらが思う順番にならない場合があります。
最悪はラーメンが先に出て、餃子を食べ終わった頃にビールが出てくるパターン。
ちゃんと、「ビールはまだですか?」と聞いていたのですが、まったく店の対応能力ゼロ。
まぁ、あまり日本語が通じないお店でしたがね。

では、フレンチやイタリアンではどうでしょうか。
オードブルやアンティパストの前菜からはじまりスープやパスタの後にメインが出て来てデザートというのが一般的な流れで、コースを作るシェフも客も大体そんな流れのイメージで食べているはずです。

昔、非常に懇意にしているイタリア料理店で、アンティパスト、プリモ・ピァツト、セコンド・ピァツトの3皿をオーダーしたら、厨房から「パスタで来ましたが」と声が聞こえて、その後にシェフが「先にだしちゃえ!」と。
ハルコそのシェフと5年間絶交状態に!

でも、イタリアで中国料理食べにいくと、麺や炒飯はプリモ・ピァツトの扱いで最初出て来て、これは、これで、食文化の融合かと思うのですが、難しいなぁ。

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2015年11月24日火曜日

白トリュフ



ずいぶん、ブログを休んでました。

新しいブログが更新されてないので、
心配されていた方もおりましたがハルコ元気です。

岩手のイベントの用意から連続の撮影とバタバタしてましたが、また、ブログ再開します。よろしくお願いします。

先週から今週にかけて、イタリア料理店で続けて、
白トリュフをいただきました。

白トリュフは、加熱出来る黒トリュフと違い生食なので、
10月から12月までの3ヶ月しか口にできません。

先週は広尾の『アンビグラム」でパスタと合わせて、昨晩は代々木公園の「オストゥ」で薦められたオムレツに合わせていただきました。


「オストゥ」のダイニングと厨房には境が無く、白トリュフをオムレツの上に削り、
加熱されて香りが一杯に広がり陶然としました。

自分の白トリュフオムレツを食べ終えても、他のお客さんが、やはり白トリュフを次から次へ頼むので、
「鰻屋の店頭状態」で、ず~~っと白トリュフの香りに包まれて白ワインがなんと美味しかったことか。
脳の幸せを感じる部分が随分刺激されて、酔った感じでやはり、
白トリュフには「魔物」が棲んでいると思った一夜でした。

オストゥはお勧めです。



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2015年9月1日火曜日

防災食品、乾物パスタ


9月1日防災の日です。東日本大震災以降みなさん災害にあっても用意万端でしょうか。今朝、NHKの「あさイチ」を見ていたら、防災の日の特集で非常食について放送てま
した。

その中で非常食に向いている麺類で「そうめん」「パスタ」「うどん」と言うのがあり、番組では「パスタ」が一番良いとのこと。

その理由は、調理する際に一番水を使わずに済む、そうめんとうどんには塩分が入っているので、茹で汁は塩からくて使えないが、パスタの茹で汁はそのままスープ(スープパスタ)として使える。
これを見ていて、今度は以前の「はなまるマーケット」(終了)で災害時にパスタを茹でる方法をアルケッチャーノの奥田シェフが伝授してました。

以下はハルコブリグからのアーカイブ再録「パスタは乾物!」です。
ハルコブログとしては閲覧率が高かったのです。

さて、今朝テレビで情報番組を観ていたのですが、こんなのが流行っていたとは、ハルコ知りませんでした。
パスタの茹で時間がわずか1分!
いや、ウソだろうと思っていたのですが、NHKの「ためしてガッテン!」辺りから出て来たようで、料理人さんの中では知っている人も多いようです。
昔からそば屋さん(多分一部だと思いますが)でしている方法で、乾麺のそばを水に浸水させておいて、充分に水を含ませてから麺を茹でるのです。すると短時間で茹で上がり、食感がモチモチするそうです。


朝の番組(はなまるマーケット)では、アルケッチャーの奥田シェフがその技を使い、パスタ料理を作っていたのですが、水に2時間程度(それ以上でも可)浸けていました。水に浸けたパスタは色が抜けて白くなり、それを茹でると元の色に戻るのです。
水の替わりにコンソメ液に入れても同じ状態になり、さらにパスタにコンソメの味が入るのです。
いや、本当に知りませんでしたが、面白いですね。
そう考えると、乾麺は昆布や干し椎茸、切り干し大根と似ています。
奥田シェフは、この1時間で茹で上がるパスタを、東日本大震災の支援で被災地の炊き出しに活用したそうです。

生と乾麺の中間にある1分早茹でパスタは、第三の味覚かもしれません。



2015年8月24日月曜日

夏の蕎麦屋


思えば今年は夏休みらしい、休みは取ってなかったのです。
7月末から8月にかけて京都で、5日間の撮影をした後に、すごく忙しいわけでもないのですが、ダラダラと過ごしていたのです。
そんな、日曜日に少し休みらしい休みを、と、思い
上野の国立西洋美術館のチケットがあるので、出かけたのです。
「ボルドー展」という、ドラクロアの絵が目玉の展覧会ですが、西洋美術館でやるような内容じゃなかったですね。



その前に、腹ごしらえで、上野の池之端の薮蕎麦へ行ったのですが、ちょい、20分ほど並んだのですが、入口の脇にある室外機の熱風がたまりません。
上野に来ると薮で蕎麦を手繰ることが多いのですが、”天抜き”を食べたさで行くのですが、外の暑さと入口の熱風に負けて、どうしようかと悩むハルコなのです。
まず、ビールをぐびっと飲んで、心を落ち着かせて、改めて考えるとやはり暑いが、”天抜き”は捨て難い。
意を決して”天抜き”を頼み熱々の丼の蓋を取ると、湯気がもわっと上がり、また、暑さが蘇ります。
汁を一口飲んで、衣を一口食べて、ビールをぐびっと、いつもある鴨焼きが献立から消えていて、酒の肴には物足りないなぁ。
ぬる燗を1本頼んでのですが、これが、まぁ、熱燗!
猪口に酒を注ぎ、”天抜き”の小海老をつまみに、ぐびっと、まぁ、段々休みらしい感じ……。
後から来た隣の卓の客が「巣篭もり蕎麦」と、注文するが、この所献立で見たことがない。残念だったねお兄さん。
額に汗をかきながら、”天抜き”を終えて、やはり、ザル1枚(薮のザルは、盛りで、一般の蕎麦屋さんのザルは、海苔かけという)。
ちょっと、食べ足りないが、後で何か食べよう。
最前の美術館を出たら、雨がポツポッ、傘をさすほどじゃないが、蒸し暑い。
冷たいクリームソーダを求めて、彷徨うが、気が付いたら、鈴本演芸場の中入り後の高座をペットボトルのお茶を飲んでいた。
なんとも、ゆるい夏休みの1日でした。

2015年8月14日金曜日

8月15日のすいとん


毎年815日になると思い出す味があります。
815日、終戦記念日(敗戦が正しいと思ってますが)と言えば、
「すいとん」なのです。

子どもの頃は、毎年815日にはすいとんを必ず食べさせられていたのです。

このすいとんが、本当にだしの味も無く小麦粉を練って入れただけのもので、何でこんな不味いものを食べさせられるのかと、苦痛な1日でした。

すいとんは「水団」とも言い、ひっつみ、はつと、とってなげ、なんて名前で室町時代から庶民の間で食されていたのですね。
それが戦時中には米の代用食として、薄い味の汁に薄いすいとんを入れて、増量出来る素材を加えて食べていたんですね。
その戦時中の苦しい時代を子どもに伝えるために、田舎のわが家では8月15日は「すいとんの日」だったのです。




母はもう43年も前に亡くなり父も昨年末に他界しましたが、父母とも昭和20年は二十歳で、父は福島から満州蒙古青年開拓団で大陸に渡り、満鉄で機関士を目指していまいしたが、現地徴用で兵隊さんへ。
そして、引き上げ船で帰国。
母は戦時下、岩手県の釜石(鵜住居村)で日本が初めて艦砲射撃を受けた時(製鉄所に)に、砲撃の激しい音と振動の中で震えていたそうです。
年代的に戦争の話は廻りに体験者が多く、身近な世界でしたが、その語り部も少なくなりました。
しかし、未だにすいとんは嫌いなハルコです。

写真は戦後まもなく、釜石を訪れたアメリカの進駐軍を慰労する会で舞台での記念撮影。
しかし、母親(前列左)が何をしたかは聞けませんでした。

2015年8月13日木曜日

ハルコ、京都でイタリアン



この所ブログをさぼっており、一部の方からハルコは大丈夫か?と、
問い合わせがありました。
元気でやっております,ご安心を!

先日、京都で撮影のために5日ほど滞在して、仕事のはねた後は京都の旨いもん屋さんを訪ねておりました。

一時期は、京都で食べるなら「京料理」と決めて連日名だたる料理屋さんへ出かけてましたが、最近はジャンルの違う店の行くようになりました。
やはり、京都は楽しいですね。(出来るなら東京と京都を半分ずつ住みたいくらい)

その中で、京都の最強グルメ案内人の関谷江里さんに誘われて、イタリンレストランへ出かけたのです。

何でも、今の京都はイタリアンの店が多く出来て、和食・日本料理店よりも多いそうです。



レストランの名前は「Cenci(チェンチ)」でオーナシェフは、イル・ギョットーネ京都店で
15年間腕を振るっていた坂本健さん。

ハルコが普段好きなイタリアンは、質実剛健な料理ですが、チェンチ」は食べ進んで行くうちに、あれ、和食を食べてんの?と思う様な料理の連続でした。

鮎の春巻き、とうもろこしのソース、鮎の骨せんべい、トロフィエ、
じゃがいも、あわびソース、黒トリュフ
賀茂茄子とうに、伏見とうがらし。ケッパーの素揚げ、仔羊のステーキ夏野菜添え、
新生姜、あさり、うに、山椒のパスタ
特に、賀茂茄子とうに、伏見とうがらし。ケッパーの素揚げは、仕上げに卓上で「中勢以」の熟成肉と、岩手の「石黒農場」のほろほろ鳥で作ったコンソメをかけたもので、プレゼンテーションも楽しく美味しい。


東京の料理は、エッジがはっきりしていて、ある意味で明確に判りやすと思うのですが、京都の料理は和洋に限らずに、境界線が曖昧で、良くいうと融和、別ないいかたをすると、食材も調理法も既存のかたちにこだわらず、どん欲な
味の追求をしている。東京のストレートなロジック性を一段違う視点で外すという高度なテクニックがありますね。

それにしても、京都人は本当に洋物好きだと今回は確信しました。
また、京都に行こう!

2015年7月22日水曜日

江戸前とうなぎ




梅雨が明けたら思い切り猛暑です。

1ヶ月ほど前に冷たいものを食べ過ぎてお腹を壊したハルコとしては、暑いと言っても冷たいものはほどほどにしてます。
暑い時の食べ物というとやはり、「うなぎ」でしょう。
今年の土用の丑の日は、724日と8月5日ですが、うなぎの稚魚が少なくなりうなぎも高騰し、中々口に入らなくなりましたね。

よく江戸前という言葉を耳にしますが、久しぶりのブログは「江戸前とうなぎ」で一席。

どのすしの歴史の本にも「輿兵衛ずし」が江戸前の元祖だと書かれています。江戸に上方から「こけら鮓、サバ鮓、箱鮓」が入ってきたのは五代将軍綱吉の時代です。それから約130年後、1810(文化8)に花屋(華屋)輿兵衛が握りずしを考案したといいます。
それ以前にも握りずしはあったらしいのですが、現在に繋がるルーツで成功したのが 花屋輿兵衛です。それが馴れずしや押しずしに代表される上方ずしが、早ずし(江戸前)にあっという間に取って変わったのでした。

江戸前とはいったい何なのでしょうか? 
ひと握りのすし飯の上に、タネをのせて握るすしが江戸前の定義なのは当たり前ですが、何故それを江戸前と呼ぶかというのは諸説多々あります。
一般的に流布されてきた説は、東京湾で獲れる魚介類を指しているようで、昔食べにいったすし屋のおやじさんに「ウチは江戸前だから○○は使わねぇんだ!」と言われたことがあります。その当時はそう思っていましたが、実はその江戸前という呼び名を最初に使ったのはうなぎ屋なのです。

家康が江戸に入った当時、日比谷は入江で現在の丸の内界隈は浅瀬でした。そのあたりを埋め立てる大規模な干拓工事をしていた頃、日本橋のあたりは島になっていて、古名が「江戸前島」。周辺の沼地でとれたうなぎをぶつ切りにして縦に串を刺し、焼いて味噌をつけ、干拓人夫に売っていたのです。その形が蒲の穂に似ているところから蒲焼きという呼称になったのです。
江戸前島でとれたうなぎをうなぎ屋により江戸前と呼んでいたのがいつの間にか日本全国ですし屋の代名詞のようになってしまったのでした。

今やどこでもすし屋さんは江戸前が中心です。江戸前握りずしが発明されてまもなく200年。江戸前ずしは世界中に「SUSHI」として日本を代表する食としてグローバルな料理となり、さらに拡大しましたが、これから先はどうなるのでしょうか?
江戸前ではなく、巴里前とか、倫敦前、伯林前、桑港前なんて言うわけないですよね。

ハルコが顧問している大阪の松前屋でも大変美味しいうなぎを作ってます。
よろしかったら「ぐるなびippin]ご覧ください。

2015年6月24日水曜日

半世紀の勘違い





土曜日から体調を崩し(お腹方面)でなんちゃって「不食」ですが、
事務所では1日中ハーブティーを飲んでおりました。

先日、友人宅で食事に招かれて、食後のお茶で、
「ジェイソン ウィンターズ ティー」が美味しかったので、
オクサマが通販サイトから取寄せたものです。
奇跡のハーブティーと呼ばれているらしいのですが、体調不良のハルコは
このお茶はことのほか身体に効いたようで、大分楽になりました。
と、今飲んでますが。

さて、日曜日にお酒も飲まず、何も食べずにテレビをボーッとザッピングしていたら、
美空ひばりの特番があり、思わず全部観てしまいました。
歌だけなら観ませんが、戦後70年の歴史がらみだったので面白い番組でした。

1964年の大ヒット曲に「柔」がありますが、ハルコは50年この歌詞を
間違えて覚えていたのに気がついたのです。
元歌詞は、関沢新一(歌詞 ) 古賀政男(曲)で

勝つと思うな思えば負けよ
負けてもともとこの胸の
奥に生きてる柔の夢が
一生一度を一生一度を
待っている

ですが、
「奥に生きてる柔の夢が」
の部分を
「お国に生きてる~」だと勘違いしていたのした。
東京オリンピックで国威発揚で、国のために尽くす
スポーツ選手の歌だと思っていたんですね。
この分じゃ、他にも勘違いして覚えているのが沢山ありそうだ。

2015年6月19日金曜日

名人の湯加減

先日歌舞伎座で「新薄雪物語(しんうすゆきものがたり)」を観劇したのですが、その中の「正宗内」の上演はかなり珍しく20数年ぶりのことだそうです。
あらすじを書くと長くなるので、端折りますが、刀鍛冶正宗が出てくる話で、本来は一子相伝の秘術を息子の団九郎ではなく、来国行の息子の国俊に伝える段の場面。

風呂場で正宗が、国俊野の手を取り湯に中に入れて、秘伝を授けるのですが、これは、刀鍛冶の焼き入れの際の一番ベストな温度なのです。
それを、正宗の息子の団九郎が湯に手を入れた瞬間に正宗が腕を切り落としすという凄惨なシーンでした。


あまり、刀鍛冶に詳しくない方のために説明すると、刀を鍛える時に地金を真っ赤に焼き、ちょうど良いタイミングで水の中に入れるのですが、季節や気温で相当違うのでそうです。
暖かい季節に冷たい水に入れたり、寒のうちに天然の水に入れたりすると刀はヒビだらけになってしまうのです。
そこで、ほんの少し温めて、ぬるま湯にしておくそうで、温か過ぎると焼きが甘くなるのです。
この話は天皇の料理番、秋山徳蔵の『味と舌』の中の「道具と器・包丁」の項ににも出てました。
やはり、この時代の人はこうゆう話は知っているのですね。
秋山徳蔵のエッセイでは、腕は切り落とされても、盗みとった水加減の感覚は残っているので、その後片腕でも立派な刀鍛冶になるというお話でした。
江戸から明治にかけて廃刀令が出て、刀鍛冶が包丁鍛冶に転身した時に、関東では世田谷辺りに集まったそうです。
その名残の「世田谷ぼろ市」には昔、良い包丁が沢山出ていたそうです。
これは知人の古物商、魚柄仁之助さんに聞いた話でした。

2015年6月9日火曜日

ジャパニーズ・サケ


関東も梅雨に入り少し肌寒いですね。
この3日間晩ご飯は、鮨、おでん、和食と外食だったのですが、普段はビールから入るハルコですが、全部日本酒で通しました。
昨晩は銀座の「久保田」さんへオープニングレセプション以来の再訪でした。
総料理長の野村さんのお薦めで、酒のみの入れた鍋を作っていただきました。
「酒には五味の中で”塩味”が無いだけで塩味を加えると五味が完成する」
つまり、昆布や鰹節でだしを引かずに、何と贅沢なことに、純米酒をたっぷり使った鍋をいただきました。(写真)

今朝、朝刊を読んでいると「日本酒 純国産に限る」という記事が目に入りました。
以下はその引用です。

ーこれまで、日本酒のはっきりした定義はなかった。国税庁長官は年内にも、「日本酒」について、地名を商品名に使う知的財産権である「地理的表示」に指定。日本酒や英語の「ジャパニーズ・サケ」を名乗れる清酒を、国産米や国内の水を使って国内でつくられた清酒に限る方針だ。
 日本など世界貿易機関(WTO)の加盟国は、地理的表示に指定した商品を保護し、その地名を産地以外の商品に使わないよう取り決めている。英スコットランドの「スコッチ・ウイスキー」、仏シャンパーニュ地方の「シャンパン」が代表例だ。 純国産でなければ「日本酒」とは呼ばせません――。政府のクールジャパン戦略の一環で、財務省がそんな方針を年内にも決める。今後増えるとみられる外国産の清酒と差別化し、日本食ブームに乗って本家本元の日本酒を、世界で味わってもらうのが狙いだ。


以前は、日本酒は国内だけで飲まれるもので、海外の方にはあまり好まれていないという印象でしたが、時代も変われば変わるののですね。
地方での地域活性化では、結構地元の造り酒屋さんがキーになっていることが多いです。
単にアルコールの飲み物としてではなく、日本の伝統的な文化とも日本酒は関わっています。
良い流れだと思うのです。

2015年5月21日木曜日

代々木上原→幡ヶ谷


今朝方は雷鳴と稲妻で眼が醒めました。
まだ、薄暗いはずなのに厚いカーテン越しに稲妻が激しく光ったのでびっくりしました。

しかし、眠いのので稲妻と雷鳴の間隔を数えながら
どこに落ちていたのかと、考えているうちに二度寝してしまいました。
(※音は1秒間に340mなので、数を数えて掛ければ距離がでます)

そんな一日の始まりですが、昨日で定期が切れていたのですが、
今日から通勤路線を変更することにしました。



今まで自宅のある西巣鴨から都営三田線で日比谷で千代田線に乗り換えて
代々木上原でしたが、今度は都営三田線で神保町で、
都営新宿線(途中で京王線)で幡ヶ谷駅に変更することにしました。

確かに代々木上原駅から徒歩3分と近いのですが、
なにせ、急な坂がね。
幡ヶ谷駅からだと、徒歩7分くらいですが、平坦な道のりなのです。
さらに、幡ヶ谷から新宿3丁目まで6分ほどで、伊勢丹へも
貝印(岩本町)にも1本で行けるので便利なのです。

事務所移転してまもなく3ヶ月になりやっと廻りの環境にも慣れてきました。

代々木上原でも幡ヶ谷からでも近いです。
みなさん、お待ちしてます。
(※写真は事務所のあるマンションの外観です。)

2015年5月8日金曜日

鉄の町の子




連休後半のニュースで、明治日本の産業革命遺産に多くの
製鉄、炭坑、造船などがユネスコへ登録されるようですね。
その中で岩手県の釜石市にある橋野高炉跡も入ったのはご存知だと思います。
昨年から何度か釜石へ幾つ度に、町には「橋野高炉跡を世界遺産に!」
と看板やポスターが張られてました。
内心大丈夫かなぁと、心配していましたが、うれしい限りです。

橋野高炉跡は、幕末に欧米のような鉄製の大砲を作ろうと、佐賀藩を先駆けとして日本各地に反射炉が作られていたのです。
しかし、日本古来からの「たたら製鉄」法により砂鉄を原料として作られた大砲では、性能の優れた欧米の大砲には太刀打ちできなかったのです。

話すと長くなるので端折りますが、盛岡藩士の大島高任(おおしまたかとう)は、大砲の素材には良質な鉄鉱石を原料とした銑鉄が必要と考え、盛岡藩大槌通甲子村大橋(現岩手県釜石市甲子町大橋)に洋式高炉を建設し、安政4年12月1日(1858年1月15日)、日本初の連続出銑に成功したのです。

釜石地域では明治初期までに7か所13基の高炉が建設されましたが、橋野は当時国内最大の鉄鉱山だったのです。
 1957(昭和32)年6月3日には、我が国に現存する最古の洋式高炉跡として、国史跡に指定されています。
今回は産業の世界遺産に認定されれば、東日本大震災の復興の一助になると期待してます。

小学校の遠足の場所が「橋野高炉跡」だったことがあります。
まぁ、子ども自分なので、草がボウボウで、何やら石積みの跡を見せられて何が面白いのかはその頃は理解できませんでしたね。

鉄の町の子として生まれ育ち、親や親戚や友達の親達も製鉄所の仕事をしている地域だったので、鉄は幼い頃から身の回りにありました。
いまだに、調理道具で包丁などの鉄製品にも関わってますが、地元の金属加工の支援もしたいと考えてます。

やはりハルコは「鉄の町の子」ですね。

2015年4月30日木曜日

クッキングパパ30周年1985年


毎週木曜日は『週刊モーニング』の発売で、毎週楽しみに読んでおります。
今週は連載マンガの「クッキングパパ」が30周年の巻頭特集でした。
昨年ある会で原作者の”うえやまとち”さんにお会いしてたのです。
30年間ず~っと同じテーマで描かれているのって、すごいですね。
しかし、登場人物の荒岩一家も子供達が成長し、会社の頼りなかった部下も結婚し有能な営業マンになったりと、読者もキャラクター達と同時に歳を経て行き、共感を呼ぶ当たりが長く愛読されている理由ではないでしょうか。
実際に30年経て行くと主人公の荒岩課長は、もう定年を迎えている時期ですが、
まぁ、マンガですから。

その『クッキングパパ』はじまった30年前に何があったのか、いや、色々ありましたね。
この年に映画の『バック・ザ・フューチャー』が大ヒツトしたので、遡ってみましょう。

大横綱北の湖が引退、ソニーから8mmビデオが発売(ハルコも買いました)
電電公社がNTTになり、初めてのショルダーフォーンが発売(肩掛けの重たい移動電話)!
一度某イタリアンでテーブルの上に忘れていたのを見た事があります。あんなにでかいのにね。

まだ、まだ、「おニャン子クラブ」、松田聖子と神田正輝結婚、つくば博、ゴルバチョフソ連共産党書記長就任、タイガース日本一、
そして、御巣鷹の日航機墜落事故、8月12日でしたが、ある会社にキャンノンの新製品のために販促企画のために打ち合わせに行っていた日でよく覚えてます。
その商品はスチールビデオという商品で、写真機の様な(まぁ、カメラです)装置にコード付きの小型受像機を付けると写真がその場で観れるという画期的な商品でした(笑)。
今ならデジカメやスマートフォンですが、その当時は、まだ、そんな装置を使う事は夢の世界でした。まだ、パソコン自体が普及していなしいし、ネットなんて影も形も無い時代でした。

『クッキングパパ』は1985年5月16日発売からスタートしました。
同じ年にハルコの事務所オフィスハルは5月10日(ゴトー)に会社登記しました。

30年はあっという間ですね。

2015年4月28日火曜日

こんにゃく問答


連休直前というか、もう連休中の方もいらっしゃるようですね。
ハルコはというと特に予定はなく、仕事したり休んだりという感じです。
連休初日のの4月29日は昭和の日ですが、
いまだに「昭和天皇の誕生日」という方がしっくりくるのです。
さて、この日は「こんにゃくの日」でもあるのです。


八五郎さんてぇご仁が、田舎の村のこんにゃく屋で世話になり、村の空き寺の和尚になった所から始まるのが、落語の「こんにゃく問答」でございます。

この寺へ、永平寺の諸国行脚の雲水の僧が問答に参ったのです。
そして、こんにゃく屋のご主人六兵衛さんがにわか和尚になり、雲水と問答を始めるのですが、何を聞かれても黙ったままで、相手の僧は無言の行と勘違いしてしまい、両手の親指と人差し指で自分の胸の前に輪を作って前へ突き出しました。
すると和尚に扮した六兵衛さんへは両手で大きな輪を作って見せたのでございます。
相手の僧は「ははっ!」と平伏いたしました。

次に僧は、今度は10本の指を前に突き出し、六兵衛はそれを見ると5本の指をぐっと突き出した。またまた相手の僧は平伏するのでございます。

次に、僧は3本の指を立て前に突き出しますと、六兵衛さんは目の下に指を置き大きく「あかんべえ」をいたいました。すると相手の僧は恐れ入って平伏し、逃げるように立ち去ったのです。

帰りぎわに八五郎が、僧に問答はどっちが勝ったのか聞きますと、自分の負けと言ったのです。
何を聞いても黙っているので無言の行だとと悟り、「和尚の胸中は?」と問うと、「大海のごとし」という答え。
「十方世界は」と問えば、「五戒で保つ」との仰せ。
もう一問、「三尊の弥陀は?」と問えば、「目の下にあり」という答だというのです。
到底、愚僧の敵う相手ではないので、修行して出直してくると言い、逃げるように退散したのですが、こんにゃく屋の六兵衛さんは怒っていました。

こんにゃく屋の六兵衛さん曰く「今のは永平寺の僧なんかじゃない、ここいらをうろついている、ただの乞食坊主だ」と。
「俺がこんにゃく屋の親父だとわかったもんだから、おまえの所のこんにゃくはこれっぽっちだと小さい丸をこしらえて、手でケチをつけやがった。俺の所のこんにゃくは、こんなに大きいと手を広げてやると、今度は10丁でいくらかと値を聞いてきたので、
五百だって言ったら、しみったれ坊主が、三百に負けろっていうから、あかんべえをしたんだ」と言うのが「こんにゃく問答」で、ハルコはこの噺が大好きなのです。

このブログは2年前の手抜き採録です。
写真は金沢の「黒百合」のこんにゃくおでんです。

2015年4月20日月曜日

ビールクズの原点!


ハルコは普段から「ビールクズ」と尊敬(?)されてます。
これは、ネットで使われている用語らしくご存知無い方のために解説をいたします。
「昼からビールを飲むような人間のクズ」という意味が「ビールクズ」で、「朝からビールを飲むような人間のクズ」は「スーパービールクズ」と言われているのです。
ハルコは出張で新幹線に早朝に乗る時に、お弁当と一緒にかかせないのがビールです。

昔、某所のスナック(スナックですよ)で、店の常連である出版社の方々と親しくなりました。そのうちの一人と朝食になにを食べるかかという話をしていました。
すると、「朝ご飯はマグロの刺身にビール」と。
「えっ、朝からビール飲むんですが?」
「そう、朝風呂に入ってから、毎朝6時にマグロとビール」
ハルコはまだ、20代だったのですが、その方を尊敬するようになりました。
朝からマグロを食べてビールを飲む、こんな大人になりたい!
これが、ハルコのビールクズのルーツなのです。

昭和8年の4月20日は、馬越恭平の命日なのです。
馬越恭平は、明治時代にビール業界の合併問題で、それぞれ、各メーカーが厳しい市場競争で日本麦酒の経営危機が改善しないので、渋沢栄一や当時の内閣に働きかけ「国内の過当競争排除と輸出の促進、 資本の集中化を図るための」合併勧告を引き出したのです。
そして、1906年(明治39年)、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の3社を合併し、大日本麦酒株式会社が設立されると社長に就任したのです。
その後、大日本麦酒は市場占有率を79%までに高め、馬越恭平は「日本のビール王」と呼ばれのです。
この大日本ビールは、現在サッポロビールとアサヒビールに分かれてますね。

今日は、朝昼ビールは飲んでません。
「えっ、夜だとハルコは、単なるクズだって!余計なお世話です」

2015年4月16日木曜日

戦場の料理人


以前からハルコの知識の90%はマンガだと豪語(?)していました。
今朝も通勤中に木曜日発売の『週刊モーニング』を熟読しておりました。
今週の「グラゼニ(野球マンガ)」はどうなったか?とか、読んでいると
「黒博物館 ゴーストレディ」というマンガに思わず(!)となりました。

まぁ、このマンガを説明するのは面倒で省きますが、
簡単に言うあの有名な「フローレンス・ナイチンゲール」をモデルにした怪奇マンガなのです。
世界中から敬愛されたナイチンゲールの物語は、良い子の皆さんなら知っていますね。
イギリスのヴィクトリア時代に勃発したクリミア戦争に従軍看護婦を率いて「白衣の天使」と呼ばれてた偉人で、ハルコも幼少のみぎりに読んだものです。
まぁ、だいたい子供の時に読んだ偉人伝はその後大人になり、読み返したりすることは無いですね。

しかし、マンガで新たに大人になって読むとまた、面白のです。
さて、ナイチンゲールが従軍して戦場での劣悪な病院を改善して行く過程で、食事があまりにもひどく、生煮えの肉やそのまま出される乾燥豆(ナイチンゲールがくる前はもっと悲惨だった)を病人が食べていたのですが、ナイチンゲールの要請で、イギリス政府の内閣の陸軍大臣パンミュア卿に全権を委任されたシェフが派遣されてきたのです。
その名はアレクシス・ソワイエ。
現在の感覚でいうと、星付きシェフが突然野戦病院のシェフになったのようなものです。
ロンドンのクラブでフランス人料理長として有名だったソワイエが登場することにより、野戦病院の食事は改善され、患者の具合で調理され栄誉状態もよくなり、兵士達の死亡率も減少したそうです。
このアレクシス・ソワイエの事は全くこのマンガを読むまで知りませんでした。
イギリス料理は不味いという先入観で、ろくな料理人はいないと思っていたのですが、フランス料理の歴史でも出てきてない人物ですが、非常に興味を覚えました。
先日、ジョン・ファヴロー監督の映画「シェフ」を観たばかりですが、この人物を主人公にして映画を作っても面白だろうなと、思ったハルコでした。

※写真は『モーニング』(講談社)4/30藤田和日郎『黒博物館ゴーストレディ』より。





2015年4月15日水曜日

頭で食べるか、胃袋で食べるか。







代々木上原に引っ越して1ヶ月半が過ぎてだいぶ環境にも慣れて落ち着きました。
時間が許す限り代々木上原の料理屋さん巡りをしていますが、この地域は沢山の飲食店があり当分探訪は続ける予定です。


最近自分の「味覚の幅」がどんどん狭くなって来ていると自覚しているのです。
味覚は年齢とともに変化します。幼少期からだんだん大人になるに従い味覚の幅が出来て、新しい味覚を受容してきますが、ピークを迎えると、だんだん幼少期の頃の味覚へと退行していくらしいですが、まさに、今のハルコです。
食をいささか仕事ににしている身としては、大変困ることなのです。
自分の好き嫌いとは別に新しい未知の味に対してどう、興味を持って維持するかが重要なのですがね。

食べる経験や体験は、知識の積み重ねで個人での判断基準がどこにあるのかが問題です。
普段食べるときは、意識しなくても、大雑把に言うと「頭で理解」するか。「胃袋で理解」するかだと思っています。
口に食べ物を入れ前に、眼で見て、匂いを嗅ぎ、舌で味わい、咀嚼して胃袋まで送りこむ、場合によっては尾篭な話ですが、排泄されるまでが一つのストーリーです。
先日もあるレストランで食事をしながら、匂いや味を分析している自分がいて、これは長年の習慣というか、病気だなぁと思う次第です。
決局、長年食べ物を頭で食べているのですが、だんだん面倒になってきたこの頃です。
しかし、胃袋だけで食べるには歳を取りすぎているし、最後は心で食べるのでしょうか?
なんてことをぼんやりと考えているハルコでした。

2015年4月1日水曜日

落語と弥助

4月になりましたね。

新年度の始まりですが、先月は出張続きでブログも休み勝ちでした。
先週末から3日間で北陸新幹線の開通した金沢へ出かけてました。
東京から本当に近くなりましたね。
お弁当を食べながらビールを飲んでいると、もう長野です。”かがやき”で行くとこんな感じで”はくたか”でも良いかと思う次第です。



今回の金沢の最大の目的は「小松弥助」なのです。
金沢の料理研究家小川敦子さんより、以前から金沢で”弥助”はいかがですかと。
今回は”弥助”に予約を入れてもらってから金沢のスケジュールを組んだのです。
色々な情報を見ると、
「先代の久兵衛の主人が日本一の鮨職人」だと言ったとか。「東のすきやばし次郎、西の小松弥助」……。
非常に高い評価を得ていたのですが、ある出来事で店を畳まないといけない状態になりましたが、その腕を惜しんで、ある方が援助して現在の場所で「小松弥助」を再度開店したのだそうです。
場所は金沢片町のアパホテルの1階。この狭いビジネスホテルのロビーは、開店の11時半前からみなさんお待ちでした。
伝説の鮨職人、森田一夫さんは80過ぎの高齢とは思えないほどの、踊るように魚を切り、鮨を握る。
少しお造りをいただき、まず、一人前五貫を握ってもらう。
赤イカ、炙りトロ、甘エビ、煮はまぐり、梅貝、器に入ったお鮨、そして、うなキュウ。
食べていて、何で旨いのか検討がつかない。随分鮨は食べて来たはずですが、今まで、素材の良さや、下ごしらえの良さ、あるいは、握りの技術……と相当頭で理解していたと思う次第。
小松弥助の素材は飛び抜けて上物でもなく、まな板で包丁で叩いている時は素材がカウンターまで飛び散るしそんなに丁寧でもなく、しかし、なぜ、旨いのか判らない!
その時に頭を過ったのは落語家と一緒じゃないかと。
すきやばし次郎は昭和の大名人、桂文楽、そして、小松弥助は、古今亭志ん生。
端正で一言一句違わない文楽は「すきやばし次郎」で、噺は端折るし、どうなるか先がわからない、志ん生は「小松弥助」。
楷書と崩し文字との違いで、考えてはけない、その場を愉しみ受け入れることこそが唯一の対応の仕方。
もう一度、小松弥助に食べに行かねば。

2015年3月26日木曜日

蕎麦屋の定食

今週は久しぶりに東京におりましたが、また、週末から出張なのです。
新しい事務所に移転して、まもなく1ヶ月ですが、今月の半分弱は東京にいなかったことになります。
それを言訳にブログは休み勝ちでした。
前の事務所は南青山で、ほぼ表参道の交差点の近くにあり、ランチ所はあるのですが、代々木上原に比べると、こちらの方が断然ランチ天国ですね。
同じ業態の店も沢山あり、競合が厳しいのか、それぞれ美味しいのです。(まぁ、中には外す店もありますが)
このところ、ランチは蕎麦屋さんを重点的に回ってます。
かなり、代々木上原は蕎麦屋さんが方々にあるのです。代々木上原駅から少し入ると住宅地なので、昔から店屋物を取る家が多いせいでしょうか。




普通ならハルコは蕎麦屋さんでは蕎麦を中心に頼むのですが、この所は蕎麦屋さんでは蕎麦以外の定食を食べているのです。
同じ蕎麦屋さんでも随分ランチは違いますね。蕎麦に丼もの、小鉢、サラダ、香の物が基本ですが、中には蕎麦は別に純粋な定食もあるのです。
ある所は洋食屋さんぽぃ定食があり驚きました。
南青山に比較して値段も安いし良いですね。それに、量も多いようです。当分ランチ探検しますが、夜は夜で美味しい店も多く、ご紹介しますね。

2015年3月20日金曜日

名古屋右往左往

先週、今週名古屋で約1週間撮影してました。
先週は季節外れの雪で、名古屋も雪で覆われ大変寒い思いをしました。



今週は一転初夏のように暑くなり、東京から冬のコートで出かけたのですが、コートは邪魔になるし、困ったもんでした。
名古屋駅から犬山線に乗り換えて、江南市まで撮影に毎日通っていたのです。
名古屋からこの方面には、岐阜行きもあり、慣れていないと危うく違う路線に乗りそうになり朝から右往左往してました。
江南市在住の人気研究家の富田ただすけさんとレシピ本を作ることになり、撮影で日参していたのです。
昨年は大阪梅田から阪急電鉄で塚口までこれも、1週間くらい通いましたが、やはり、地方での撮影は大変ですね。毎日、ホテルと撮影場所の往復で、朝から夕方まで撮影して一旦ホテルに戻り、晩ご飯を食べに行くのですが、これが、ささかやかな楽しみなのです。
しかし、日中は撮影したものを朝から試食しており、夕方になってもさほどお腹が空いている訳ではありません。
今回も夜は軽く食べれられる所を探してましたが、ハルコだけは飲み足りず、ホテルのそばのコンビニでウィスキーを買い込んで、ぽっち飲みしておりました。
写真はそんな晩ご飯の1軒「世界の山ちゃん」です。

2015年3月4日水曜日

代々木上原逍遥

代々木上原は表参道からも近く、
たまに立ち寄る地域でまったく
土地勘が無い地域ではないのですが、
新オフィスは駅から公表3分という距離なのです。
しかし、しかしですよこの3分の坂がキツいのです。
坂道のスタート地点から歩数を計ってみた所(ひまですね)
大体300歩でした。1歩75センチとして約200メートル強。
これから暖かくなるので雪の心配はないのですが、
雪が降ったらこの坂は登りたくはないですね。
オフィスは3階建ての2階と低層なのですが、何故か屋上には
避雷針が付いているではありませんか。
その理由は建物自体が高台にあり、他の住居が低いのです。
つまり山の頂なのですね。
事務所に至道は、その急勾配の道と
もうひとつ迂回して来る道もあります。
時間にして6分ほどで倍時間は係りますが、
ハルコはこの道を湯島天神にならって「女坂」
急勾配を「男坂」と勝手に呼んでおります。



2015年3月3日火曜日

引越完了しました。



先週の土曜日に長年仕事場だった
南青山から代々木上原に引越ました。

いや、本当にこの2ヶ月は大変でしたが、無事に終了したのでみなさまにご報告いたします。

南青山には38年もいたのですが、仕事人生のほとんどですね。

心機一転新たな環境で代々木上原からブログを発信いたします。
※写真は新事務所の玄関に置いた招き猫!

遊びに来てくださいね。

ハルコ


2015年2月20日金曜日

引っ越し

今月はほとんどブログを書いていません。
ただ今、事務所移転のために大わらわなのです。


フリーのデザイナーとして独立した38年前に、住居権仕事場を南青山に構えました。
その間引っ越しは2度だけしましたが、同じ南青山5丁目で徒歩3分程の距離です。
38年前に南青山に来た頃は表参道駅は地下鉄銀座線のみでしたが、やがて千代田線、半蔵門線と便利な地域になりました。

引っ越しで何が一番大変かというと、膨大な本の整理です。
書架で20台ほどの雑誌や書籍があり、古書店で買い取りをしてもらえる所を捜すのですが、ほとんどはブックオフ向きではないので、それぞれのジャンル向けの業者さんににお願いしました。
家庭画報のバックナンバーも1975年から450冊、重量約200キロ!
ハルコの本業は本作りですが、本当にイヤになりますね。

というわけでハルコブログは移転先に落ち着くまで、お休みいたします。
今後ともよろしくお願いいたします。

近況はFBで随時発信しております。
ハルコのfacebook

2015年2月4日水曜日

立春大吉


昨日は節分、今日は立春です。
どうも、明日は雪になりそうですね。
誕生日だったのですが、人に祝ってもらうのが苦手なので、この日はひっそりと静かにしておりました。
干支は2月3日までが前年度で、節分生まれはどうも線引きが難しいとか。
占いによると「良い事と悪い事は同時に出てくる」相らしいです。
ハルコ的には1月の「新年」よりも2月4日の「立春」を大事にしているのです。

この仕事を始めて、40年の月日が流れました。本当に早いものですが、気分は二十歳頃からあまり成長もせず変わっていませんが、風貌は……。
そろそろ人生の行く末を思う年齢ですが、今までの事を整理しながら次のステップを考えています。

「立春大吉」
みなさまに幸が訪れますように。

ハルコ

2015年2月2日月曜日

和菓子のアン

ブログを始めた頃に、ハルコが推薦する料理関係の本を100冊くらい紹介しようと思って数十冊は書いたのですが、その後あまりしていませんでしたね。

昨年から撮影をしていた和菓子のレシピ本がが3月に刊行されますが、今年は京都の老舗料亭の和菓子の本が秋に刊行予定で、これから撮影や編集作業に入ります。


そんなわけで、普段はそんなに和菓子は意識しないのですが、『和菓子のアン』(坂本司/光文社文庫)のご紹介です。
デパ地下の和菓子店「みつ屋」で働き始めた梅本恭子(通称アンちゃん)が、和菓子の話を軸に繰り広げらるミステリーなのですが、3年位前に評判になっていたらしいのですが、気が付きませんでした。
デパ地下のバックヤードなどがリアルに描かれていますが、ハルコ自身も三越や伊勢丹を通じて、百貨店のバックヤードを見ているので、別な視点で読んでいて面白いのです。
当分和菓子づいているハルコでした。

2015年1月26日月曜日

箸持ち

撮影の立ち会いがたまにあります。
主にこれは出版関連が多いのですが、メーカーさん立ち会いの場合もあり、過去に色々と大変な目に遭っているのです。

撮影の事前準備は、企画書からダミーカンプのプレゼンに、調理内容とレシピの確認、場合によっては幾通りかのレシピを提出してそれの試食会で決める、という結構面倒なものなのです。
そのために、何度も調理人やスタイリストさんと“漏れ”が無いか確認します。
何かひとつの素材や皿がないために、撮影が中断されることもあるのです。
そんな段取りをしていて、撮影の現場で突然わけの判らない“ダメ出し”をするクライアントさんがいるのです。


通常のレシピ本の撮影は料理点数が多いので、1時間で2~3点撮影を目標にしていますが、クライアントさん立ち会いは1点を2時間くらいかけて撮ります。
この時に立ち会いのクライアントさんが「う~ん」と唸り、考え始めるのです。
的を射ているならいいのですが、どうでもいい事や無理難題を言う事も多く、「それまで何段階もかけてプレゼンしていたのは、何のためだ!」となるわけです。
おまけに、撮影がどんどん押して終わらない!

そこでハルコの仕事は、クライアントさんが不必要に撮影に口出ししないように気をそらすことです。
料理撮影で中身が見えにくい時は、料理の一部を箸やスプーンで持ち上げて撮りますが、ハルコは長年箸持ちをしており、今では左右どちらの手でも箸持ちが出来るようになりました。
しかし、クライアントさんが来ている時は「たいこ」を持つのです。

2015年1月23日金曜日

入りにくい居酒屋

自宅でテレビを付けた時に、毎回同じ番組に出会う時があります(本当に偶然です)。
NHKBSの「世界入りにくい居酒屋」という番組がそれで、観るとはなしに観ているのです。


世界中の地元の人しか行かない、ましてや旅行者なんか行かない(行けない)ような、難易度の高い店が出てくるのですが、皆例外無く混んでいる店ばかりなのです。
ネットで調べてみると、現地のコーディネーターにリサーチしてもらい、スタッフが実際に飲みに行き「入りにくい」と判断すると撮影交渉するそうです。
今までに、ラスベガス、ナポリ、ボストン、ハノイ、グアダラハ、ホーチミン、エディンバラ、マデイラ島、ポルト、リバプール、ゲント、ブリュッセル、ミラノと広範囲にわたって紹介しています。これが公共放送の受信契約料で制作されていると思うと、ちょっと腹が立ちますね(笑)。

旅行に行った時に、たまにそんな店に行った時は結構ビクビクものでしたが、日本でも知らない、入りにくい居酒屋に行く時は緊張します。
店の客(常連さん)や店の雰囲気(中に入るまで不明)と、オーダーの仕方(これが一番分かりにくいのです)。
たまに地方に一人で出張する機会がありますが、そんな時は勇気を持って(大げさですね)突入するのです。
誰でも予約できて入れる料理屋さんと違い、入りにくい居酒屋さんは驚きやサプライズがあり、それが楽しみになってくる年齢なハルコなのです。

2015年1月19日月曜日

みりん

今朝のNHK「あさイチ」の特集は「みりん」でした。
番組ではみりんの魅力の他に、健康に良いという視点で構成されていました。
根底にあるのは家庭で調理する際にみりんがあまり使用されない、または使い方がよくわからず、使い切ることなく余ってしまうというのを解決する、という内容でした。


みりんがあまり使われなくなった最大の原因は、「酒税法」にあると以前から考えているのです。
みりんは元々、調味料として使われる他に飲料用にもされており、江戸時代にはみりんに焼酎を加えたものは「直し」や「柳蔭」とも呼ばれ、夏場に冷やして飲む風習もありました。
数十年前は、みりんをは酒屋さんや酒販売免許を取得している所でしか購入できませんでした。これは、みりん自体が14%のアルコールを含んでいる紛れもない酒だからなのですが、現在みりんをアルコールとして好んで飲む人はいるのでしょうか?

話を元に戻します。
そういうわけでもないのでしょうが、酒の販売免許のいらない店で販売している「みりん風調味料」はアルコール度数が1%未満なので、これは酒税がかからない種類で、ちゃんとしたみりんは「本みりん」と区別されているのはご存知ですね。

しかし長年みりん風調味料で育ってきた家庭では、本当のみりんの美味しさや素晴らしさが判らずに、本みりんを使う機会がなく、みりんを使う食文化が衰退して来たのですが、最近は伝統の醗酵文化としても見直されており、もっと家庭の料理に活用して欲しいものですね。

2015年1月14日水曜日

弁当列車が走る!

今朝は伊勢丹新宿本店キッチンステージのセミナーの日だったのですが、いつものように早めに新宿三丁目で地下鉄を降りると、地下鉄から伊勢丹への入口のシャッターが下りているではありませんか!
地上に出ると長蛇の列で、「あぁ、今日からクリアランスセールが始まるんだ」と思い出す次第でした。

平日なのに凄い人出で、開店時間も15分繰り上げられ、セミナー中も何だか普段の空気とは随分違い、少し落ち着かない感じがしました。
丁度今日から1ヶ月後の2月14日はヴァンデーがあり、チョコレートばかりではなく色々なギフト商品が店内に溢れてきますね。
その2月14日釜石の三鉄で、新しいお弁当列車が走ります。

「あまちゃん」で有名になった三鉄は北の方ですが、南の方の三鉄のために「賛否両論」の笠原料理長がオリジナル弁当を考案しました。ハルコは昨年サンプルのお弁当をいただきましたが、三陸の海の幸たっぷりで美味しかったですよ。
震災以来、南三陸と北三陸鉄道が不通になっている釜石・宮古間で一日も早く復活出来るように、「三賛六弁当」をご支援ください。



三鉄の新しい公式駅弁「三賛六(さんさんろく)弁当」誕生!
2/14(土)お披露目列車を運行しますので、申し込みの上、ぜひご参加ください。
今回監修を行った人気和食料理人、笠原将弘シェフも乗車します!
第1便:三陸鉄道釜石駅 午前11時   受付開始
第2便:三陸鉄道盛駅  午後0時15分 受付開始
【問】三陸鉄道釜石駅 電話:0193-22-1616

2015年1月13日火曜日

体温

このところ寒い日が続いていますね。
一昨年の1月はわが家はオクサマ・ハルコ共々インフルエンザに罹り、外出も出来ずに大変な思いをしました。
昨年は慎重に風邪を引かないように、ほぼ1日おきにカレーを食べて風邪の予防に努めておりました。これは、カレーには漢方薬と同様の成分があり、人体の免疫力を上げる効果があると思い、実行しておりました。


この3連休の前後は仕事していましたが、日曜は久しぶりに長時間の散歩をしました。休み休みですが、4時間くらい歩いたでしょうか。
帰ってきて晩ご飯を食べた後に体の節々が痛み、少し頭痛もしたので「やばい! 風邪か?」と思いました。日中はさほど寒くはなかったのですが、夕方からグンと冷え込んで体温が下がったようです。
念のため、予防に風邪薬を飲んで寝たら翌日は大丈夫でしたが、過去の経験から体温が下がったと思うと風邪を引いたり、胃腸の具合が悪くなったりしています。

細菌やウィルスなどの外敵から体を守るのは免疫力ですが、その根幹は体温だと思います。
風邪で熱が出るのは体がウィルスと闘っているのからなのですが、ついつい熱を下げるという対象療法をしがちですね。
まだまだこれから寒い日が続きます。今月もカレーを食べて免疫力を高めなくては!

2015年1月8日木曜日

料理セミナー初日

今日は朝から伊勢丹新宿本店キッチンステージでの初セミナーでした。
ご存知の方も多いかと思いますが、伊勢丹新宿本店地下にある「キッチンステージ」というイートンレストラン(物版もあります)の運営会社は貝印です。
このレストランの企画運営を、ハルコがお手伝いしているのです。

基本は2週間ごとに各ジャンルのシェフに季節に合わせたメニュー展開をしていただき、専属のシェフスタッフが調理をして提供しています。
その開催期間中に2回、お客様を募集して料理セミナーを開催しているのです。1回17席で、年に直すと約800名もの方がセミナーに参加していることになりますね。
その際お客様には、料理を食べていただきながらシェフの調理のデモンストレーションやトークを楽しんでもらう、という趣向です。

運営する側は、百貨店のオープン前からシェフをお迎えして、セミナー中は3時間ほどずっと立ちっぱなしなのです。
中では美味しそうな料理にワインを召し上がっていて楽しそうですが、お腹は空くし腰は痛いしと、なかなか大変です。
これも年間にすると140時間、約6日間は丸ごと立会になる計算ですね。貝印の運営で
3年になることを考えるとハルコの人生の中で1ヶ月はここにいる計算になります。
まぁ、こんな計算をしても仕方がないと言えばそれまでですね。
たまに(たまにですよ!)セミナーを一瞬抜け出して、すぐ側にある立食いそば屋に出かけて空腹を満たしたりしているのです(これは、秘密ですが)。ふふふ。


2015年1月7日水曜日

NARISAWA屋台食堂


今日は七草粥の日で、松の内も終わりですね。昨日は暖かで夕方から雨でしたが、六本木の東京ミッドタウンの芝生広場に行ってきました。2015年1月7日(水)~3月8日(日)の61日間の期間限定でアイスリンクが開設されるのです。
えっ、ハルコがスケートするのかって?
とんでもございません。目当ては設営されるアイスリンク横にオープンする、NARISAWAプロデュースのキッチンカーです。
成澤由浩さんが日々大切に伝え続けている日本の食文化と、素晴らしい食材を全国から集めて毎日提供する、という趣向です。
ハルコは昨晩、博多モツ煮を岩手の南部美人でおいしくいただきました。
ただ会場に行くのが遅れて、メインのイベントの高橋大輔のスケートは見られませんでしたが、彼が帰っていくのだけは確認しました。

NARISAWAの実験的な料理のほかにも、赤坂にオープンした老舗洋食の東洋軒のプロデュースと、軸を少しづつ動かしながら、今度は日本の食材を使って椀や汁ものと、週替わりで提供なさるそうです。
この形態がキッチンカーなのですが、最近はよく見かけますね。
事務所の近所でも、昼時にテイクアウトのランチを提供しているキッチンカーには、長い列が出来ています。



食文化の形態としては、江戸時代から連綿と続く外食の草分けの煮売り屋さん、屋台鮨、二八蕎麦などの延長なのが面白いですね。
屋台の鮨屋さんは最初は道端で商売していたのですが、明治時代に道端では不衛生ということから禁止され、一部の鮨屋さんは他の店舗の軒先を借り受けて商売をして、やがて一軒家の立派な店を構える、という進化を遂げてゆきますが、グランメゾンからキッチンカーで客のいる場所に移動して商売するという逆進もいいですね。
山形のアルケッチャーノの奥田シェフは、若い料理人育成でキッチンカーシステムを活用していると聞いたこともあります。

2015年1月6日火曜日

冬のおでん、夏のおでん

昨日は仕事始めでしたが、普段より早めに仕事を切り上げて(と言っても19時台ですが)久しぶりに神保町方面へ出かけました。
いつもは閉店ギリギリの店ばかりで選択肢は無いのですが、まだ早いので神保町から小川町まで探索しました。
正月明けで何が食べたいかと、オクサマと意見の一致を見なくてはなりません。

まずこれは、引き算なのです。
寒い、ゆえに体を冷やすものはダメ。
正月中にオクサマは牡蠣の生で体調を崩されたので、魚介関係や寿司屋さんは除外。
自宅にまだ生のへぎ蕎麦が残っているし、新潟のダーチャでも随分食べたので蕎麦も除外。
日本料理はおせち料理でたくさん食べたので、これも除外。
そこで洋食に傾きかけ、スペインバルやイタリアンの側を通りましたが、満席で入れず断念。
するとオクサマが、「この近所に『おでんや』さんがあるはず」と(サラファンも前を通って、イタコさんがよく行くと思い出したらしい)、小川町「狩の川」へ。
普段おでんは「銀座のやす幸」ばかりですが、たまにはいいか。

これが、ピンポン!
熱燗でおでんは冬ならではの楽しみですが、夏の暑い日のおでんもいいのですよ。
楽しみな店が1軒増えた松の内でした。

2015年1月5日月曜日

仕事始め


昨年末に身内の不幸もあり、本来なら喪中ハガキを出さなくてはいけないところでしたが、12月に出張も重なり何も出来ずに年末年始を迎えてしまいました。
年賀状をくださった皆様には重ねて御礼申し上げます。

一休禅師

正月や冥土の旅の一里塚
めでたくもあり めでたくもなし


という有名な句があります。年々歳々思うところですね。

年齢的にリタイア世代に入りましたが、まだまだやらなければいけないことも山積です。今年は少しずつ片付けていく年になりそうです。

本年もよろしくお願いいたします。
ハルコ