2013年5月31日金曜日

じぇ じぇ じぇ! まめぶ汁

明日から6月。早いものですね。
月末なので経理やら雑用で事務所に早く出てました。
そんな時間でブログを書いてます。

毎朝、NHKの「あまちゃん」を楽しみに観ているのですが、今日はお座敷列車で「潮騒のメモリー」が聞けて良かったです。
お座敷列車の折り返し駅のホームで振る舞われていたのが、今日のテーマ「まめぶ汁」です。この番組で一躍全国区になりました。
最初は「まめぶ」を「ディジャブ」なんて取り違えたギャグがありましたね。


先週、このまめぶ汁を盛岡でいただいたのです。
本来「まめぶ汁」は、岩手県の九戸郡大野村や山形村に伝わっている料理で、結婚式や法事で振る舞われるものなのです。
汁もののジャンルですが、汁は少なく実だくさんなのです。
中心になる小麦団子は、小麦粉をぬるま湯でこね、くるみと黒砂糖を加えてから、親指の先ほどの大きさに丸めておきます。これが“まめぶ”です。
言い換えれば、まめぶ汁は「小麦団子と焼き豆腐入りのうま煮」(農文協『聞書き岩手の食事より)なのです。

塩味の汁や野菜を食べてからまめぶを口に入れると、くるみと黒砂糖の甘味に到達し「じぇじぇじぇ!」と、驚くわけです。

現在、まめぶ汁は人気で地元でも品薄らしいのですが、本来は家庭料理なので、それぞれの家庭で味が違うものなのです。
これで、お菓子を開発したら面白いかも。

さぁ、これから「いざ、鎌倉へ!」

2013年5月30日木曜日

ハルコ、そばっちと家出!?


今日は、朝から伊勢丹キッチンステージのセミナーやら打ち合わせで、昼ご飯も食べれずに事務所に戻ったかと思う間もなく、梅雨模様の空を見ながらまた外出。
暑い日もイヤですが、このはっきりしない天気もイヤですね。

だからという訳でもないのですが、今日のブログは短信でした。
明日は昼前から鎌倉へ行かねば。

※ブログのタイトルと本文はまったく関係ありません。

2013年5月29日水曜日

こんにゃく問答


八五郎さんてぇご仁が、田舎の村のこんにゃく屋で世話になり、村の空き寺の和尚になった所から始まるのが、落語の「こんにゃく問答」でございます。

この寺へ、永平寺の諸国行脚の雲水の僧が問答に参ったのです。
そして、こんにゃく屋のご主人六兵衛さんがにわか和尚になり、雲水と問答を始めるのですが、何を聞かれても黙ったままで、相手の僧は無言の行と勘違いしてしまい、両手の親指と人差し指で自分の胸の前に輪を作って前へ突き出しました。
すると和尚に扮した六兵衛さんへは両手で大きな輪を作って見せたのでございます。
相手の僧は「ははっ!」と平伏いたしました。

次に僧は、今度は10本の指を前に突き出し、六兵衛はそれを見ると5本の指をぐっと突き出した。またまた相手の僧は平伏するのでございます。

次に、僧は3本の指を立て前に突き出しますと、六兵衛さんは目の下に指を置き大きく「あかんべえ」をいたいました。すると相手の僧は恐れ入って平伏し、逃げるように立ち去ったのです。

帰りぎわに八五郎が、僧に問答はどっちが勝ったのか聞きますと、自分の負けと言ったのです。
何を聞いても黙っているので無言の行だとと悟り、「和尚の胸中は?」と問うと、「大海のごとし」という答え。
「十方世界は」と問えば、「五戒で保つ」との仰せ。
もう一問、「三尊の弥陀は?」と問えば、「目の下にあり」という答だというのです。
到底、愚僧の敵う相手ではないので、修行して出直してくると言い、逃げるように退散したのですが、こんにゃく屋の六兵衛さんは怒っていました。

こんにゃく屋の六兵衛さん曰く「今のは永平寺の僧なんかじゃない、ここいらをうろついている、ただの乞食坊主だ」と。
「俺がこんにゃく屋の親父だとわかったもんだから、おまえの所のこんにゃくはこれっぽっちだと小さい丸をこしらえて、手でケチをつけやがった。俺の所のこんにゃくは、こんなに大きいと手を広げてやると、今度は10丁でいくらかと値を聞いてきたので、
五百だって言ったら、しみったれ坊主が、三百に負けろっていうから、あかんべえをしたんだ」と言うのが「こんにゃく問答」で、ハルコはこの噺が大好きなのです。

本日は「こんにゃくの日」でございます。
お後はございませんが……。

「こんにゃくだけに、今夜喰う」

2013年5月28日火曜日

病は口より

「病は口より」は、お馴染み『養生訓』の貝原益軒先生のお言葉です。
「えっ、今さら何故?」とお思いでしょう。


ハルコ作、貝原益軒先生のイラスト。

この益軒先生の
「人生、日々に飲食せざり事なし。
常につつしみて、欲をこらえざれば、過ぎやすくして、病を生ず。
古人、禍は口よりいで、病は口より入るといえり。
口の出し入れ、常に慎むべし。」

を読むだに「はい、ごもっとも」と思うのですが、しかし人はなんと誘惑に弱く、しょうもない生き物なのだろうと思うハルコなのです。

貝原益軒先生は今から350年程前に活躍した学者ですが、享年84歳と、その当時としては長寿でした。
最近、色々な会食会のお誘いを受けるのですが、皆さん旺盛な食欲でお酒もたんと召し上がる方ばかりなので、将来の健康は大丈夫だろうかと心配になってしまうのです。余計なお世話ですよね。
と言うハルコも、今年になってから体重が高値安定で、下がる気配がありません。
また、益軒先生はどうも肉を目の敵にしていたせいか、
「肉も一品でよい。……肉は二種類重ねて食べてはいけない。」
うむ、焼肉屋に行ってカルビにロースにハラミなんか注文したら、益軒先生に大目玉を喰らいますね。

貝原益軒先生より少し後の杉田玄白先生も、『養生七不可』「飲と食とは度を過ごすべからず」とおっしゃっていますが、どうも守れないのが人間ですね。

やはり人生で美味しい物を楽しもうとすると、当然摂生が重要になる、と認識しております。ちょうど一ヶ月後に血液検査があるので、貝原益軒先生を見習ってちょっと頑張ろうかしらん。
まぁ、明日からですが。ダメじゃんハルコですね。

2013年5月27日月曜日

ハルコ盛岡じゃじゃ麺を食す

今日は朝から連続で打ち合せで、ブログを書くのが随分遅くなってしまいました。
さて、土日に盛岡まで出張しておりました。
この盛岡での仕事はまたの機会でご紹介いたします。


盛岡って麺文化圏なのですね。
まず盛岡駅に着くなり、“盛岡冷麺”の洗礼を受けて何軒かお店を廻り、イタリアンでは雲丹のパスタ。夜の〆には“じゃじゃ麺”、そして、ホテルの朝食には“わんこそば”も食べて、1日にして「盛岡三大麺」全制覇+パスタで大堪能しました。
実は盛岡でじゃじゃ麺を食べたのは初めてでした。まぁ、東京でもじゃじゃ麺はそんなにいただかないのですが。
遅い時間だったのですが、案内していただいた店は「香醤(コウジャン)で、混んでおりました。


盛岡のじゃじゃ麺は、戦前、旧満州(現在の中国東北部)に移住していた高階貫勝さんという方(後の「白龍」(パイロン)の初代主人)が、満州時代に味わった「炸醤麺(ジャージアンミエン)を元に、終戦後の盛岡で日本の食材を使って屋台を始めたのが最初だそうです。

じゃじゃ麺用の平たい独特の麺に、肉味噌と胡瓜と葱をかけ、好みに合わせてラー油やおろし生姜や大蒜をかけて食べます。
テーブルには生卵がおいてあり(最初は茹で卵かと思いました)、麺を食べ終わった後の器に(麺は少し残すように、と教育的指導を受けました)、卵を割り肉味噌を加え、茹で汁を注いでかき混ぜたスープを「鶏蛋湯(チータンタン)と言い、これを啜るのですが、これが旨いのです。
たっぷりお酒も飲んだ後には、ぴったりですね(太りますが)。

岩手出身のハルコですが、逆に郷土の食文化を知らないのだと感じました。
これから、ちょくちょく来て色々と食べよう、と思った1日でした。

2013年5月24日金曜日

腹持ちのする食べ物

朝起きて幸福だと思うのは、ちょっと大きな声で言うのも何ですが、“トイレでスッキリ”と、“空腹感”です。逆に、お腹が重くて膨満感の朝は最低ですね。
1年を通してどちらが多いのでしょうか。
ハルコは普段、晩ご飯は遅く不規則だし、暴飲暴食気味だし、半々くらいでしょうか。


しかし年に数回、どちらでも無い日があるのです。
膨満感も無く、かと言って空腹でもなく……何と言うのでしょうか、「平常心な胃袋」という感じです。
昨日はまさにそんな日でした。朝1杯の紅茶を飲んだきり、夜まで何も食べていなかったのですが、空腹にならないのです。
どうしてかと思ったのですが、閃いたのは「腹持ちのする食べ物」ではないかということです。

「腹持ちの良い」とは医学的には、摂取した食べ物の栄養分の吸収がゆっくりで、血液濃度に大きな変化のピークを作らないということです。

その腹持ちの良さは食物の種類により、その成分が同じであっても、摂取後の血糖値上昇に違いがあるのです。

また同じ素材でも、切り方や調理法で吸収速度が違ってくるのは経験でわかりますね。
丸ごとの素材をそのまま食べるよりは、細かく切ったり、すり潰す、あるいはそれをエッセンスにしたもの、汁ものやスープだと直ぐにお腹が好き、「腹持ちが悪い」となります。
言い換えると、「腹持ちの良い」というのは消化が悪いと言うことですが、胃にもたれるような消化の悪さではなく、腹持ちが良い上に、不快な状態ではないのです。
適度な組み合わせで、料理を作ったり食べたりすると、ダイエット効果もありますね。

普段から胃を酷使しているハルコも、たまには胃袋や肝臓を休ませてあげないといけませんね。


2013年5月23日木曜日

香味屋・メンチカツ

昨夜は、根岸の香味屋さん「メンチカツを食べる会」がありました。
ハルコは前の打ち合わせが長引き、思いっきり大遅刻(1時間半も)!
もう皆様、前菜から始まるコースの、メインのメンチカツがスタートしておりました。


出来立ての熱々のメンチカツを、最初からいただきましたが、ナイフで切ると肉汁が勢い良く飛び出すくらいジューシューで大変旨かったです。
そのメンチカツは「わんこそば」状態でお替わりし放題、とメンチカツ好きには天国のようなひと時でした。
ハルコもお替わりして、4個いただきましたが、短時間ではこれが限度でした。

ところがですよ。会に参加していた方(男性です)が、何と10個も召し上がっていたのです!
うむ、家庭で作る場合、牛肉50gで換算すると1個当たり270kcalですが、香味屋さんの牛肉はもう少しおごっているので、目測ですが290kcalはあるのではないでしょうか。
そうすると10個のメンチカツだけで、何と3000kcalくらいになる計算です。
他の物も食べ、アルコールも飲んでいるので、こりゃ1食で最盛期の小錦並みのカロリー摂取ですね。
いやはや凄いですね。
余談ですが、スポーツ選手で相撲取り以上にカロリーを消費するのは、シンクロナイズドスイミングの選手で、小谷実可子さんは1日に7000kcalを摂取していたそうです。だから、水泳はカロリー消費運動に適しているのですね。

さて、そのメンチカツですが、これは日本オリジナルの洋食です。
明治時代に、浅草の洋食店が「ミンス・ミート・カツレツ(minced meat cutlet)として販売したのが起源とされてようでうです。
なぜミンスがメンチに変わったのかは、あまりよく判ってないようです。
俗説としては「ミンス・ミート・カツレツ」は mince(挽き肉) meat(肉) cutlet(フランス語のcotelette〈コートレット〉が語源)を合成した和製英語とされていて、その内に「ミンス・ミート・カツレツ」がどこかで短縮され「ミンス」が「メンチ」に変じて、「メンチカツ」となった、という説が一般に広まったと言われていますが、どうなんでしょうかね。

そして、東京から関西に伝わった料理とされており、昭和初期に兵庫県神戸市の純神戸肉三ッ輪屋精肉店(明治34年創業)の二代目が、東京の洋食店の「メンチボール」(ミートボール)をヒントに考案した際に、mince(挽き肉)の事をミンチ肉(ミンチ)と呼ぶことから、ミンチで作るカツがそのまま「ミンチカツ」と呼ばれるようになり、これがメンチカツの語源だという説もあるのです。

ここまで、いくと、ハルコの大好物の「コロッケそば」の起源と言われている銀座の「吉田屋」のコロッケそばまで話が広がってしまうので、またの機会に。

2013年5月22日水曜日

普通に美味しい。って?


料理を食べ終わり(主に外食の話です)、皿を下げるホールの人(あるいは料理人)に「美味しかったです」などと、一言声をかけますよね。
まぁ、美味しい時か、よくなかった時ですが。
その時に、自分自身のボキャブラリーの貧困さに気が付くのです。

口では「美味しかった」と言っても、皿の上に食べ残しがあれば、相手は本当に美味しかったのかどうか判りませんよね。
そんな時によく「美味しかったけど、量が多くて残してしまいました」と言訳がましく言いますね。
ただ、料理人は返って来た皿を見て客の反応が判るので、残していると「そんなに美味しくなかったんだ」と思うでしょう。
最大の表現は実はチップなのですが、日本では一部の料理店でしかしません。
日本料理では心付けという形でチップを渡しますが、これは事前に渡しサービスを良くしてという意味合いで、サーブ後の善し悪しではないですね。
パリで現地の人と一緒に食事をして、最後の支払いでチップを渡す時に「これはシェフへ、これはホールに」と分けていたのを見て、感心したことがあります。

さて、最近よく「普通に美味しい」という表現を聞きますが、この表現自体の是非ではなく、「『普通に美味しい』って何だろう?」と考えてみました。
何故かと言うと、ハルコもオクサマも最初は冗談で、外で「普通に美味しい」と言っていたのですが、意外に違和感が無いのです。
ニュアンスとしては、「想定していたより」「思っていたより」レベルが高い、と思ったときの表現なのですね。言い換えれば、「カリテ・プリ(内容と価格)」のバランスに優れているという意味です。

料理に対して「値段が高いが旨い」「値段が高くて不味い」「値段が安くて旨い」「値段も安いが不味い」の4通りとすると、大抵は「値段が安くて旨い」が一番だと思ってしましますが、ハルコ的には「値段と釣り合う料理」が一番難しいと考えています。
常にアップダウンがなく、平均的に提供してもらえる料理。これが「普通に美味しい」と定義したいのです。

2013年5月21日火曜日

不味いものこそ、神の恩寵ありや。


昨日は「旨いものは、飽きる」という話を書きましたが、今日は真逆の「不味いもの」の話です。
極論を言うと「旨いもの」は幸運が重なったもので、「不味いもの」は不運に見舞われしものです。

自分で料理をする時は、よほどの事がなければ「不味く」作るのは難しいですね。
ただ、素材の苦みやエグ味が取り除けずに、いくら味を足してもどんどん「不味く」なるしかない料理もあります。
これは、実に良い経験なのです。
苦みやエグ味がどうしたら取れるのか? と学習する機会が与えられたと思うか、この素材は嫌いだから二度と手を出さない、という消極的な体験も積めるのです。

これが、出来合いの食品を買ったり外で食べるとなると、ちょっと事情が違います。
あまり体験したくはないのですが、「不味い」というジャンルの料理が存在するのです。
例えば、鮎を食べる時に付く「たで酢」なんか、どう考えてもハルコ的には不味いと思うのですが、オクサマに言わせると「ハルコの味覚はお子ちゃま」だそうな。
酸味にも弱いのですが、苦みも好きではないのです。鮎は塩焼きそのままでがぶりです。たで酢なんぞは使いません!
でも、これに文句を言っても、お店は取り合ってくれませんよね。単にバカにされるだけです。

そして、問題は「どうしたら、こんなに不味く出来るのか!」という料理ですが、たまに出くわします。
大体初めて行く店に多いようで、それも突き出しから不味いのです。
先日も、某店で不味い突出しが出てきて「こりゃ喰えんわ!」と残し、次々に頼む料理、これがみんな不味い!
むしろ感心しました。こんな簡単な料理を、これだけ不味く作れるのは一種の才能ではないかと。
この手の店に入った不幸は自分の見る目の無さで、早々に切り上げて出たのは言うまでもありません。

不味いものをいただくというのは、普段いかに気にせずに「美味しいもの」をいただいているか、ということでですね。
神に感謝してしまいます。

2013年5月20日月曜日

旨い物は、飽きる!?


人間というのは、味に関しては本当にわがままなものですね。
旨い物を食べたいと思い、旨い物を食べる。その旨い物が続くと、飽きて見るのさえもイヤになる。
まぁ、これは人に限らずわが家で飼っていた猫(26歳で天寿を全う)も、いつも同じ餌だと飽きると思い、割と高めのキャットフードを購入していました。
最初は、もの凄い勢いで食べるので「これは好きなんだな」と思っていつも与えていると、ある時に口すら付けようとしなくなりました。これでは大量に購入した飼い主の立場がありません。
余ったからと言って、人間様が食べるわけにもいきませんからね。

一時、フランス料理を食べにフランス詣でをしていた事があります。
連日、昼夜1週間ほど食べ歩きするのですが、当然星が3つとか2つの店でとても旨いのですが、仕舞いには飽きてくるのです。
帰りのアンカレッジ(時代を感じさせるでしょう。まだ直行便の無い時代です)で、味くて高いはずのうどんが、何とも美味に感じられたものです。

また、京都に季節の料理を味わいに、3日昼夜食べ歩きもしました。
美味し過ぎて、最後には昆布のだしが鼻に付くようになり旨さに飽きてきて、東京へ帰って食べた、駅の立食い蕎麦の旨さったら!

こんな事を書くと罰当たりと言われそうですが、確かに旨いのもは飽きる!
旨いものに飽きてくると、どうも人が食べない「珍味や下手物」に走る方もいるようですね。ハルコも、一時は珍味や下手物に行きかけた事もありますが、無事にその世界へは参らずに戻ってきました。

20代の頃に、世界には食べた事のない未知の味が沢山あり、生きているうちにどのくらい食べる事が出来るのか?」と考えた事があります。その中には、旨いと言われるものから、下手物まであります。
しかし、段々その手のものには興味が薄くなってきたのは、歳のせいでしょうか?

どうしても、幼少の頃の味覚がその人間を支配しているようで、素朴な味や味付けをまた、好むようになってきたような気がします。

2013年5月17日金曜日

高血圧の日

昔、桃井かおりの歌で「低血圧なんだよ、アタイ。朝、起きられないの」(映画「あらかじめ失われた恋人達よ」1971年)というのがありました。
ハルコはと言うと「高血圧なんだよ、ハルコ。朝、すぐに起きるの」とあいなります。


今日5月17日は「高血圧の日」なのです。
日本高血圧学会と日本高血圧協会が(色々な組織があるんですね)、5月17日を「高血圧の日」と制定しました。
それは、2007年5月17日から始まった「世界高血圧デー」を中心に、高血圧の啓発活動をしようと日本でも2008年から正式に「高血圧の日」に決定したのだそうです。

高血圧(140/90 mmHg以上)は、日本人の三大死因のうちの二大疾患である脳卒中や心臓病など、生命に関わる病気を引き起こす最も主要な原因となっているのです。
高血圧はサイレント・キラーと呼ばれるように、自覚症状がないため、現在、日本に約4,000万人と推定される高血圧患者のうち、実際に治療を受けているのは、わずか2割の約800万人だそうです。

ハルコもその800万人の仲間で、人ごとではないのです。
18年前に高血圧が要因で、倒れたのです。
「一過性脳虚血」で右半身が麻痺し、しゃべれなくなりました。救急車で日赤病院に担ぎ込まれて、一命を取り留めました。
その時に血圧が200mHgを超えていたのです。
それからは、毎月日赤で血液検査をし、毎日降圧剤を飲む日々が続いています。
えっ、ハルコの食生活見ていると、全然反省してないだろうって?
まぁ、ごもっともですね。酒は飲むし、脂っぽい、しょっぱい料理は好きだし、さらに、大食いだし。本当にダメハルコですね。

一時は毎日、時間ごとに血圧を測っていたのです。
自宅と事務所に血圧計を置いて、起床時、トイレに入った後(いきむと血圧は上昇するのです)、また入浴の前後(ぬるま湯で長時間入ると血圧のポイントは下がります)、食事後、酒を飲んだ後、ストレスな会議の後、就寝前……。
その結果、ストレスが原因で血圧が上昇するのが判りました。
そこで当時通っていた整体師から、ストレスダメージを呼吸法で改良する方法を教わったのです。
この呼吸法をマスターすると、血圧が一気に下がるのです。

パリでオクサマの買物のお供をした時、オクサマが試着室で着替え、「ハルコどう?」と出て来た時に、オクサマも店の方もハルコが側の椅子に腰掛けていたのに気が付かなかったんですね。
その時、ハルコは学んだ呼吸法で精神統一していたのです。
まるで、忍者のようにね。

2013年5月16日木曜日

食生活の転換した1985年

今日のブログはちょっと固い内容です。
1985年の今日の5月16日は、日本の食生活の転換が始まった日なのです。
えっ、そんなの知らないって? ではハルコが解説しましょう(エヘン!)。


厚生省(当時の)が「健康づくりのための食生活指針」というのを発表したのですが、そもそも「食生活指針」というのは、国が国民に対して「望ましい食生活はこうだよ!」と知らしめたものなのです。

最初は、戦後すぐの1945年(昭和20年)8月15日の「食生活指針」で、戦争当時の困窮した食糧難を切り抜けることを目的として、主食には玄米が推奨され、雑穀や野草など食糧になるものについて言及されていました。
それから40年後の1985年(昭和60年)に、厚生省は「健康づくりのための食生活指針」を策定したのです。
40年も経て、日本人の食生活は確かに豊かにはなったのですが、豊かになり過ぎて生活習慣病になる人が増加し、医療費が増加して国の予算が不足し始め、「こりゃいかん!」と指針が出来たんですね。

指針の一部を抜粋すると、
主食・主菜・副菜をそろえて、一日30食品を目標に、動物性の脂肪より植物性の油を多めに、食塩は一日10グラム以下を目標に、こころのふれあう楽しい食生活を。
最後の「心のふれあう」はよけいなお世話のような気もしますが、現在の食のヘルシー指向やダイエットの潮流はここから出ているのです。
この頃ハルコは、よく女子栄養大学出版部の仕事をしていたので、随分国策に沿うような内容の本を制作しておりました。

そして、15年後の2000年(平成12年)3月、厚生省、農林水産省、文部省が共同で食生活指針」を策定し、この頃から「食育」という言葉が多く登場するようになったのです。
指針の一部を抜粋すると、
主食、主菜、副菜を基本に、食事のバランスを。ごはんなどの穀類をしっかりと。
脂肪のとりすぎをやめ、動物、植物、魚由来の脂肪をバランスよくとりましょう。
たっぷり野菜と毎日の果物で、ビタミン、ミネラル、食物繊維をとりましょう。
牛乳・乳製品、緑黄色野菜、豆類、小魚などで、カルシウムを十分にとりましょう。
塩辛い食品を控えめに、食塩は1日10g未満にしましょう。

そこに、改定では1985年の「一日30食品を目標に」という指針は削除されてしまったんですね。

さらに、具体的な指針として、
2000年(平成12年)3月31日、厚生省は「21世紀における国民健康づくり運動」を10か年計画ではじめ、5年後の2005年(平成17年)、厚生労働省と農林水産省が共同で「食事バランスガイド」を策定したのですが、ここにハルコもキャラクタ−として登場したのでした(イラスト参照)。

1985年は、本当に現在まで繋がる大転換の年ですが、果たして日本人の食生活は良くなったのでしょうか。

2013年5月15日水曜日

調味料マニア

昨夜は、伊勢丹と糸井重里事務所のコラボ「調味料マニア」のユーストリーム配信の見学に行ってきました。
「ほぼ日刊イトイ新聞」サイトで、ほぼ毎月発信しているのですが、もう半年経ったのですね。


今回は半年間のまとめでBBQに合う調味料というテーマで、イトイ新聞、武井シェフと、毎回伊勢丹からは、武井シェフと組んでいる松田智華さんに、BBQ番長の岡本さんが登場という趣旨で、19時から22時半までとライブは長丁場でした。
ハルコはビールが飲みたかったのですが、終了まで我慢して甚六へ駆け込んで、ホッと一息つきました。

冒頭は、ハルコが顧問している大阪の松前屋の「昆布の水塩」「ウマミナチュレ」を使った浅漬けから始まりました。手前味噌(昆布?)ですが、これは松前屋でも人気商品なのです。

しかし、自分でも調味開発のお手伝いをしていて言うのもなんですが、いや、色々な調味料があるもんですね。
レシピさえ判れば自分でも再現出来そうなものから、絶対に再現不可能なものまで、幅広くあり、目移り・味移りしてしまいますね。
ただ、ハルコの師匠の分とく山の野崎洋光さんは、「最近の料理は素材の味がしなくて、調味料の味しかしない。料理を食べているのではなく、調味料の味を食べているんだ」と、よくおっしゃってます。

その辺で、料理と調味料のバランスを考えて調理したいですね。

2013年5月14日火曜日

食の時代考証

三田村鳶魚と言ってもピンと来る人は少ないと思います。
1870年(明治3年)3月7日に八王子千人同心の家系に生まれ、1952年(昭和27年)の今日、5月14日に亡くなっているのです。
「みたむらえんぎょ」と読み、江戸時代の時代考証「三田村鳶魚学」とも呼べる世界を築いた方なのです。
『三田村鳶魚全集』全巻が欲しかったのですが、全巻は買えずに古書店でバラバラ購入しては楽しんで読んでいました。

テレビや映画の時代劇考証のベースになっているにのは、大体この三田村鳶魚が書いた内容が多いようですが、たまにテレビの時代劇を見ると「うむ?」と思う場面が多々あります。
例えば、武士が馬に騎乗する際は、左の腰にに両刀があるので、馬の右側から乗るのが左になっていたり、江戸時代なのにちゃぶ台でご飯食べていたり、濁り酒しかない時代に清酒(透明な酒)を飲んでいたり、など多々あり、気になってしまいます。
まぁ、ドラマだから目くじらを立てる必要はないのですが、何だか気になるのです。


曾祖母はハルコが産まれた頃は生きており、2歳頃に亡くなってますが、生まれは文久3年と聞いてます。93歳と長命だったので、ハルコは僅かですが江戸時代生まれの人と一緒だったのです。
また、4~5歳頃に、父親の実家の相馬へ連れ行ってもらったことがあります。それも、蒸気機関車で朝出て、夕方に着くくらい時間がかかったそうです。
父の実家ではちゃぶ台でご飯を食べていました(その当時はそんなもの)。相馬の家では各自箱膳を与えられて、食事をしたのを覚えています。
銘々に自分の箱膳が有り、箱膳を収納する棚もあったのです。
相馬藩の下級武士の家で、ある意味では食事のスタイルは江戸時代そのままだったのではないかと思います。

現在あるものは、何時から始まっているのか?
歴史の中から学ぶ事が、まだまだ沢山あると信じています。

2013年5月13日月曜日

鮨三谷の実験室

11日土曜日は、四谷「鮨三谷」に出かけました。今回で3度目ですが、この半年で3回通っているので、半年間の比較が出来ました。


一番最初に行った時は、鮨というよりも「変わった酒肴を出される店」という印象が強かったのですが、2月に2度目に行った時は色々と食べながら考えさせられました。
どこか、普通の鮨屋さん(三谷は予約が1年先、という予約困難店なのです)とは違う、と思っていたのが、3回目で氷解したのです。

当日は、先付け、酒肴、鮨、デザートまで入れて19品目。
三谷の真髄は前半の酒肴にあり、奄美大島の鯛の白子、ぼたん海老のみそと身、鳥貝の椀、千葉・きくらの蒸し鮑、鮪と唐墨、このわたと帆立、赤紫の2種類の雲丹ご飯、鮪と鰯……。
ひとつの素材を分解してエキスと本体を組み合わせたり、普通は組み合わせない鮪と唐墨や、鮪と鰯を合わせる、という離れ業を実行するのです。
それが、調理の奇をを衒うのではなく、基本を如何に深く掘り下げていくか、という学究膚なのです。
鮪ひとつにしても、食べる時に鮪の筋を大変な手間で除去し、口に入れた時にて抵抗無く食べられるように包丁を入れる、という普通の鮨屋さんではやらない方法をとっているのです。
目の前で、その鮪の筋取りの包丁さばきを見せていただいたのは、包丁好きハルコには眼福でした。

極めつけは、食材の持っているエッセンスの抽出方法を、あらゆる調理の可能性を駆使して、それこそ実験室さながらに試行錯誤しているのです。
三谷さん曰く「これを追求していくと、どんどん奥深い世界が現れて、こんな楽しいことはありません」とのこと。

次回は3ヶ月後の予約ですが、三谷さんがどんな実験成果を見せてくれるのか、楽しみが一つ増えました。

2013年5月10日金曜日

羊頭鼠肉

早いもので、5月も1/3が過ぎましたね。
今日5月10日は510(ゴトウ)の日で、ハルコの事務所を設立した日なのです。
えっ、何年経ったって?
いや、もう忘れましたね。この所物忘れが多くて……。


物忘れと言えば(違うか)、食品の偽装は忘れた頃に、またゾロゾロ出てきますね。
中国で羊と偽り、狐や鼠の肉を売っていた、と社会問題になっていますが、皆さんは「羊頭狗肉」という言葉をご存知ですね。

羊頭狗肉は「羊頭を掲げて狗肉を売る」を略した四字熟語ですが、中国宋時代の禅書『無関門(むかんもん)』の中に出てくるのが原点なのです。
「無門関」は、無門慧関がお釈迦さまと弟子の問答集を編んだもので、「黄面の瞿雲、傍若無人、良を壓し賤と為し、羊頭を懸けて狗肉を売る、将に謂へり多少の奇特と」が大元なのです。
「店頭の看板には『羊頭(羊の頭)』を掲げ、実際には『狗肉(犬の肉)』を売る」という意味が転じて、見せ掛けは立派だが実物は違うといった意味になり、ごまかしの喩えとして、使われるようになったと言うわけです。
似たものには「晏子春秋(あんししゅんじゅう)」の「牛首を掲げて馬肉を売る(ぎゅうしゅをかかげてばにくをうる)」があります。

宗代と言うと、もう千年以上前の時代ですが、どうも偽装食品はもっと伝統的(?)な長い歴史があるようですね。
昔の中国では肉に対してのランキングがあり、牛、羊、犬、豚の順で、馬に至っては食べるものではないんですね。
現在中国料理では豚は重要な地位ですが、昔は犬以下だったんですね。
そう考えると「羊頭狗肉」の偽装は程度が軽いような気がします。
塊肉でなく、成形されるともう何の肉だか判りませんね。

食に感心のある者としては、こういうのは許せませんが、自分自身でも、もっと食材や食に対しての知識が必要だと思うハルコでした。

2013年5月9日木曜日

村上春樹のピンクジン

村上春樹さん「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は随分売れているようですね。オクサマも新潟で読み耽っておりましたが、ハルコはまだ未読です。


今から32年も前に、出版社の連中と毎晩毎晩飲み歩いていた時代の話です。
新宿歌舞伎町のコマ劇場側のビルの地下に、「マスカレード」という店がありました。かなり大きなバーで、毎晩ここに集まっては荷物や鞄を置いて身軽になり、新宿ゴールデン街に飲みに行く。そしてまたマスカレードに戻ってきて飲み直す、という生活をしていたのですよ、若き日のハルコが。
しかし、マスカレードはオーナーが故郷に帰ることになり、閉店してしまいました。
それから飲み仲間達と、市ヶ谷から新宿までのたまり場になる店を捜そうと、毎晩店巡りをしたのです。
すると、千駄ヶ谷に良い店があるとの情報があり、揃って出かけました。
千駄ヶ谷駅から真っ直ぐに行き、確か三叉路の角の2階に目指す店があったのです。
本来はジャズ喫茶なのですが、バーカウンターがあり、お酒もたくさんの種類を置いてました。

その頃、マンガ雑誌『少年サンデー』の古谷三敏の「ダメおやじ」が人気で、メンバーも愛読していたのですが、このマンガの登場人物に「メガネさん」というキャラが出てくるのです。
いつもソフト帽にトレンチコートにサングラスという出で立ちで、ダメおやじに人生と酒の知識を教える人物で、後に古谷三敏の『Barレモンハート』に繋がる需要なキャラなのです(随分長く書いてますが、ご辛抱を)。
このメガネさんが、マンガの中で飲んでいたカクテルが「ピンクジン」だったので、千駄ヶ谷の店で「ピンクジンを下さい」とお願いしたのです。
ところが、どうもピンクジンが判らなかったようで、しばらくするとこの店のオーナーが現れました。
オーナーはカクテルブックを見ながら指示を出して、我々のテーブルにピンクジンが届きました。

ピンクジンは、グラスにアンゴスチュラビターを入れてグラスの内側に廻し、不要なアンゴスチュラビターを捨て、キリキリに冷えたジンを注ぐ、というシンプルなカクテルです。
皆でカウンターにいるオーナーに向けてグラスを持ち上げ、挨拶をしたのです。

千駄ヶ谷の店の名前は、オーナーの飼猫の名を取り「ピーター・キャット」と名付けられ、店にあるピアノにはルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」のチェシャ猫の置物が鎮座して静かにジャズが流れている店でした。

その店のオーナーの名は村上春樹さんなのです。
村上春樹さんは、1982年に店を譲って作家に専念する前年の頃の話です。

2013年5月8日水曜日

新潟ぽんしゅ館

GWは新潟のダーチャで短時間ですが多少リフレッシュできました。
帰る前日に、今年の4月8日にオープンした「越後のお酒ミュージアム ぽんしゅ館新潟駅店」へ出かけました。
「ぽんしゅ」と言うのは日本酒にかけた言葉で、新潟の全ての酒蔵92蔵が参加しているのです。南魚沼、というよりは湯沢町にも(こちらの方が先ですが)、「ぽんしゅ館」があります。


新潟駅の南側に、新たに出来たホテルメッツの1、3階がぽんしゅ館なのです。
入口受付で500円を払い、5枚のコインと一緒に小ぶりのぐい飲みを受け取ります。
まるで小さなロッカーに酒のラベルが張っているような函に、蔵元さんの日本酒がずらっと並んでいるのですが、その函にぐい飲みを置き、コインを入れるとお酒が出てくる仕組みです。
いや、楽しいですね。 沢山の種類があり迷ってしまうのです。丁度5杯でだいたい一合見当でしょうか。


酒の当ては、全国から選ばれた塩がずらりと並んでいます。
また、別途に100円(もしくはコイン1枚)で胡瓜を1本買い、2種類の味噌を付けて食べても良いのです。
ハルコはキツめの酒を選んで飲んだせいか、たった5杯で酔ってしまいました。
ここには、新潟から集められてきた色々な生鮮食品や加工食品が沢山あり、ついつい買い込んでしまいました。
さらにおにぎりコーナーでは、自分の好きな具材で超巨大なおにぎりも結んでくれます。ちなみにハルコは鮭ほぐしとオーソドックスなものをオーダーしましたが、さすが米の本場、いや旨かった!
酒飲みにはたまらない空間です。新潟へ行かれる方は是非行くべきですね。

2013年5月7日火曜日

ハルコ新聞に登場!裏話

GWもあっと言う間もなく終了。前半は仕事、間の平日も仕事。後半は法事やらで、全然休んだ気がしていないハルコです。


連休の後半・5月4日の日経新聞土曜版NIKKEI PLUS 1 達人のこだわり」に、ハルコが登場しました(FBでは発信済です)。
日経新聞の土曜版(カラーですよ)で、達人(ハルコが?)が何か道具を紹介するというコーナーにお話をいただきました。
ハルコ、そんな話は即決で了承しましたが、自分でプロデュースした商品はダメだそうで、尚且つ「食に関した物を紹介してください」と言われたのですが、毎日使うものと言えば包丁ですね。
その包丁も小型のペティナイフなので、自宅で使用しているもの5本を写真に撮り、日経のライターさんへメールして、新聞社で選んでいただいのが「貝印の波刃包丁・旬ユーテリィリティナイフ150」だったのです。

撮影当日には、顔写真の背景に「お手伝いハルコ」キャラが写るように、至急ポスターを作り、単に包丁を見せるだけではなく、実際にパニーノを切って「切れた!」という演出をしたのです。
この辺はハルコの本業で、読者や消費者に判りやすく伝達するという職業意識の現れですね。

記事の後半では、これから岩手県の食のためにお手伝いする話をしました。色々アイデアは浮かんでくるので、これから実践してふるさとの役に立ちたい、と思った連休でした。

みなさんよろしくお願いいたします。

2013年5月2日木曜日

神保町 悠久堂

明日から連休も後半ですね。
昨夜は遅くまで……と言うよりは明け方まで起きて、明るくなってから寝たので「あまちゃん」を見損なってしまいました。
連休前半も仕事をしていたので、大分疲れが溜まっていますね。

午前中は自宅でメールや電話で仕事をして、午後から出かけました。
丁度、自宅から仕事場への乗り換えが神保町なので、ランチを食べに途中下車したついでに古書店へ。
行き帰りに神保町で資料を捜しに古書店を巡ったり、遅めの晩ご飯を食べたりと、この街は頻繁に利用しています。
その古書店の中でも、書泉グランデと三省堂の間にある「悠久堂」は、必ず足を運ぶ店なのです。
ここは料理関係の専門書が揃えられており、ハルコ料理文庫にもこの悠久堂で求めた書籍がたくさんあります。

今日は『箸のおはなし』『朝鮮の食べもの』『奥様は料理がお好き』の3冊を購入。最後の『奥様は~』は、もうタイトルのみで買ってしまいました。
悠久堂に入ると、時間が許す限り見ているのですが、あれこれ欲しいと思いつつ、事務所の書架も入れる本棚は二重にしているくらいなので、ポンポン買えませんね。
しかし、ついつい時間を忘れて本を物色してしまいます。
ハルコの集めている資料は料理全般なのですが、レシピの比較考古学をテーマにしていると、東南アジアや東アジア、特に朝鮮半島関係の資料はもっと充実させたいと考えております。


明日からは法事で新潟ですが、合間に本でも読もうと考えているハルコでした。

5月3日から6日までは『日々是ハルコ哉。』はお休みいたします。
皆さま良い休日を。

近況は随時FBにて発信中です。
ハルコのfacebook

2013年5月1日水曜日

GW。今昔物語

GW真っただ中です。
今年は「高近短」
高めの値段で、近場で、短めに、というのが多いとのことです。
とは言え、今年のGWは暦以下で仕事をしているハルコには、とんと縁の無い話です。

この5~6年、ハルコはGWに何をしていたか、古いスケジュールノートを見ると……。
2007年 東京で仕事半分、プッチーニのオペラや美術展。
2008年 東京で落語、ラ・フォルネ・ジュルネ(シューベルト)、展覧会のハシゴ。
2009年 神戸で撮影後に、新潟のダーチャで風邪で寝込む!
2010年 前半仕事、1日には撮影、後半は新潟のダーチャに滞在
2011年 東日本大震災の年ですね。前半は新潟のダーチャへ、後半は仕事。
2012年 前半は仕事で後半は新潟のダーチャ。
5年前に新潟にセカンドハウスが出来てから、旅行という感じではなく、だんだん静養というニュアンスになりましたが、歳のせいでしょうか。

30年前のGWと言えばもう、毎年元気に東南アジアへ出かけていたのです。
東南アジアのリゾートホテルのプールサイドで、“ウォークマン”を聞きながら本を読み、ビールを飲みながら1日中寝そべっているのが最高の贅沢でしたが、今考えると楽しい時代でした。

その頃思っていたのは、「東南アジアはこれから大変化するはず。今、観て感じないと、もう二度とこの風景や雰囲気には出会えない」ということでした。
エネルギーは沢山あるのですが、まだまだ時代が残っていた頃のお話です。