2012年11月30日金曜日

奇妙な仕事……4

今日で11月も終わり、今年も残すところ1ヶ月です。焦ってきますね。
焦ると言うと、昨日からの続きです。


そうそう、本のタイトルを失念してましたね。
『街場の料理の鉄人』という名称で、「料理の鉄人」に登場した道場、坂井、陳を始め、挑戦者が密かに認める街場にある料理店を紹介する、という内容でした。
まず、鉄人からから推薦の店を選んでもらうのですが、その説明と説得に出かけて交渉するのが大変でした。中には断られる店もあり……。
その上担当編集者は入院するし、期限は決まってるし、毎日午前中は電話のかけまくり、取材はアポ取り、午後の料理店のアイドルタイムでの取材撮影になりまます。
多いときは1日3組の取材チームが同時間に撮影してました。
この時始めてハルコは携帯電話を持ったのです。

取材先でも、さらに明日の撮影の確認し、事務所に戻ると前日の写真が出来ていて、ポジフィルム(デジタルでは無いですよ)を切り出しながらタイトルを付け、コンテを作成してそれを夜中にデザイナーへ指示を出し、上がったレイアウトを確認したら、今度はライターへ原稿を書いてもらうためにFAXでレイアウトを送り、上がってきた原稿に目を通して赤字を入れて……。こんな調子で、毎日ヘトヘトになってました。
取材撮影がほぼ終盤にさしかかり、最後の取材先では、料理の鉄人に登場したフレンチのシェフと、推薦した店の料理人とを対談をさせるために最後の撮影に行ったのが、忘れもしない、1995年3月20日。
何故この日にちを覚えているかというと、この日「地下鉄サリン事件」が起きたのです。荻窪に向う地下鉄の中は乗客も少なく、網棚に不審物が無いかとキョロキョロしてしまいました。
料理人の対談の前に話を聞いていたら、その方が丁度サリンが撒かれた電車に乗っていたそうなのですが、途中でお腹が痛くなり下車して難を逃れたと……。
本当にその時はぞ~っとしました。

今まで、本を造っていて全然出版社に見せない、ということはあり得ませんが、この本に関しては一切出版社に見せなかったのです。
時間も無いし、本来なら少なくとも編集とデザイナーは打ち合わせをする必要がありますが、ハルコがアートディレクターと編集長を兼務したので、3週間で本が出来たのです。その陰で、フジテレビの事業部の担当者が、心配で毎日ハルコの事務所に通っておりました。

やっと無事に本が間に合い、完成しました。
そして、そこからフジテレビ事業部から「奇妙な仕事」の依頼があったのです。
(つづく)

2012年11月29日木曜日

奇妙な仕事……3

現在フジテレビ系列で「アイアンシェフ」が毎週放送されていますね。
20年ほど前の「料理の鉄人」のリメイク番組で、その当時は興奮して番組を観ていたものです。
その「料理の鉄人」の全盛期に、仕事の依頼がありました。こちらは至極真っ当な本業でした。

「LIVE UFO '95」が毎年フジテレビで開催されていたのですが、翌年にはフジテレビ本社がお台場に移転するので、都心での最後のイベントだったのです。
そのイベント会場には「料理の鉄人」のフードブースが出されるのですが、それに合わせて本を出版したいとの依頼でした(真っ当でしょう!)。その内容は料理の鉄人をはじめ、番組に出演した料理人がよく食べに行く店を取り上げて取材することでした。

ところが企画自体は年のはじめにあったのですが、中々進行が遅れてイベント開催のほぼ2ヶ月前にGOが出たのです。
それからがもう大変! 何せ本にするための時間は1ヶ月もないのです。
おまけに出版の担当者は、劇症肝炎になって絶対安静で入院し、最初で最後の打合せは慶応病院の病室でした。

仕事自体は、フジ系の出版社扶桑社とフジテレビ事業局がプロデュースし、ハルコが企画構成を担当したのです。
取材は当然撮影も入りますが、鉄人を入れて20名。これを1ヶ月で取材するのです。
まず、電話を入れて趣旨を説明してから、取材の交渉のために店に出かけ、必要な場合は料理も試食する。フードライターの森脇慶子さんにスーパーバイザーをお願いし、ライター7名、カメラマン6名、イラストレーター5名を動員してバタバタする話は、明日へつづく。

2012年11月28日水曜日

奇妙な仕事……2


1995年の「団塊世代の五年後のライフスタイル」のレポートの中面。

1990年の5年後、1995年の「団塊世代の五年後のライフスタイル」はどうなっているか!?
こんな問題は、本来はシンクタンクなどがやる仕事ですが、肝心のシンクタンク機能をこれから持とうという組織からの間接依頼でした。

ハルコは、幾人かの人を集めて相談することにしました。
当然団塊世代という年代のターゲットがありますね。現在は団塊世代はリタイヤしていく年代ですが、その当時1990年代はまだ、40代の前半から後半へかけての働き盛りでした。
1990年は衆議院選挙が行われ自民党が圧勝し、時の総理大臣は海部俊樹、幹事長は小沢一郎です。ゴルバチョフがソ連(ソ連ですよ)の大統領になり、ローリングストーンズが初来日し、勝新がパンツの中にコカインを入れて捕まり、みんなティラミスを食べまくり、「おどるポンポコリン」が大ヒットして東証株価は史上2番目の高値を競って、その後に平成大不況が始まるとは誰も思っていなかったのです。
1995年という5年程度近未来の期間では、さほど変化は無いかと思っていたのですが、2年後にはバブルの崩壊という崖が待っていたのです。

話は1990年に戻り、5年後に社会がどう変化するかの予測は、それぞれキーワードを持ち寄り編纂することにしたのです。
異化、快感の科学、環境破壊、機能性食品、自然回帰、再生紙、創造的進化過程、タイムコラージュ、地水風水、バウハウス、プロトタイプの追求、ホームコロジー、セミプロシューマー、ポストモダン、会員化、シンクロ・エナジー、世紀末、ゆらぎ、互換性、ファジー、ハイパーテキスト……。
今となっては意味不明なものも沢山ありますが、22年経てもまだ使えるキーワードがありあますね。

例えば、「タイムコラージュ」
これは別に目新しい物ではなく、1980年に亡くなったカナダのメディア学者のマーシャル・マクルーハンの“メディア=メッセージ(『人間拡張の原理』)”からの引用です。
雑雑誌やテレビが同じ時間軸のうちで内容がバラバラでも、受け手は戸惑うことなく受け付ける。
この理論で20世紀のメディアは進んで来たと思うのですが、「一見、何らストーリー性のないものを、コラージュのように媒体として捕える。これが、タイムコラージュ感覚である」と、その当時のハルコは書いてます。
現在FB(フェイスブック)でのやり取りを見ていると、まさにタイムコラージュが媒体化しているのを実感しますね。

こんな「奇妙な仕事」を受け、最終的には製本した形式のレポートを13部作成して納品したのでした(写真はその冊子です)。
1部あたりのコストは、なんと13万円!
その後、そのシンクタンク組織が機能したとは聞いてませんが、どうも無駄なことの多い時代でした。
(つづく)

2012年11月27日火曜日

奇妙な仕事……1


「奇妙な仕事」と言えば大江健三郎の初期の短編小説で、(僕)が“犬殺し”を手伝う話、「奇妙な果実」と言えばビリー・ホリディの“黒人リンチ”を歌った曲ですね。40年ほど前にこの二つにハルコは同時に出会い、小説を読み、レコード聴いたのでした。
「奇妙な仕事」というタイトルで何か書こうと思ったのですが、別に変な仕事ではありません。
その道の専門家だったり、仕事の関連があれば別に「奇妙な仕事」にはならないのですが、ハルコの所に持ち込まれて来ると、それが自体が「奇妙な仕事」になるのです。

自分で事務所を構えて35年になります(あぁ~本当に長い)。
最初はエディトリアルデザイナーとして出発したのですが、飽きっぽいのか、道を踏み外すはめに……。
その道の専門家に頼めばいいのですが、なぜかハルコの所に。まぁ、頼む方も問題ですが、引き受けるハルコもどうかしていているという「奇妙な仕事」第1弾です(うむ、そのあと続くのか?)。

時は1990年、バブル真っただ中。正確に言うとバブル時代は1986年12月から1991年の2月までだそうです。
ある広告系の会社と仕事をしていましたが、そこを独立された方からの依頼でした。
1990年の5年後、1995年の「団塊世代の五年後のライフスタイル」はどうなっているか!? を研究するという内容です。
びっくりでしょう? 電話で話を聞いて受話器を落とすわ、飲んでいたコーヒーは吐き出すわで……。

どうもこのバブルの時代には、大企業がこぞって「生活研究所」なるものを立ち上げていたのです。
家電大手のナショナル(現パナソニック)が生活研究所を作り、それに負けじと某大手家電も生活研究所を立ち上げたんですね。
本来その研究所で研究するテーマを、多分そこの知り合いに相談し、そこからハルコへ丸投げで来たのだと思います。
その頃オクサマにこの話をしたら「ばかじゃない!ハルコに頼むなんて!」
はい、ハルコもごもっともと思いますが、なにせ「来る物は拒めず、去る物は追えず……」をモットーとしておりますので、引き受けてしまいました。
さて、それはどんなドタバタになるかは明日へ続きます。

2012年11月26日月曜日

職業としてのフードライター……5


『シェフ!三つ星レストランの舞台裏へようこその試写会に行きました。
いや、本当に面白い映画でした。
ジャン・レノ扮する三つ星シェフが、レストランオーナーに嫌われて、星を落としたらクビにする、というのを料理オタクの偏屈な若い料理人達が助ける、というグランメゾンを背景とした「がんばれベアーズ」と言ったら語弊があるでしょうか。
その星を審査に来る料理調査員に向けて、新作料理を考えるのですが……。

映画を見て、フードライターの最大の資質は何だろうと考えました。
まぁ、ライターと名乗るのですから、文章表現は言うまでもありませんが、最大の資質は味覚に対するセンスではないでしょうか?
このセンスというのがまた、問題ですね。
味には全ての人を満足させるものは無いということです。

映画『シェフ!』のレストラン審査員は古い味を認めておらず、最新の「分子調理法」を好んでいるのですが、ジャン・レノ扮する料理人は、伝統の味で長年星を維持してきたので、時代の要請に料理が合わなくなり、ミカエル・ユーン扮する若手の料理人に新作メニューを頼んでしまうのです。
その映画のシーンで、料理人や審査員が料理の素材や調理法や味に対して、的確に表現するシーンが良いのです。

料理屋さんの紹介記事を読んでいて、いつも思う感想があります。
この記事、このライターさんは何を言いたいのか、何を伝えたいのかということです。
フードライターの記事と言っても、ちゃんと署名して書いてあるものから情報記事まで、幅広くあります。
所詮料理記事の感想って、食べた人しか判りませんので、それがただ美味しい”と言われてもピンときません。
落語に「家ほめ」がありますが、何でも新築の家に行ってほめれば、小遣いのひとつも貰える、という内容です。
記事にも家ほめと同じ様な紹介記事がたくさんありますね。
まぁ、情報なので特に目くじら立てるのも大人げないですが、まったく店のホームページのコピーを載せている記事ばかりで……。

記事に書く、書かないは別にして、フードライターの資質として素材や調理法に精通していて欲しい、と思うのは欲張りな注文でしょうか。
料理に対しての美味い、不味いは所詮「食事感想文」で個人の領域を出ないので、その内容に対しての、知識の幅や厚みや体験が表現する“個人の感想を超えて一般化しつつ、さらにその先にあるもの”を読みたいのです。
理想は料理人と同じくらい調理法に精通して、自身でも調理が出来る。
えっ、そんなフードライターがいたら自分で店をしているって?(一部お店をしている人もいないことはないのですが)
極論すれば、フードライターは作り手と読み手の間に介在する“イタコ”のような存在なのでは、とハルコは思うのです。

2012年11月22日木曜日

職業としてのフードライター……4


明治時代に村上弦斎という御仁がおりました。現在の知名度はどうなんでしょうか。
村上弦斎は小説家で、一番読まれたのは『食道楽』という本です。明治時代には徳富蘇峰の『不如帰』と並んで大ベストセラーになっているのです。
内容は小説の形を取りながら、物語の筋に600以上の料理や食材がはめ込まれているのです。
現在手元にあるは岩波文庫版『食道楽』(上下)で、中身を読んでいると、日々連続の連続で、何だかブログを読んでいる気分なります。

春夏秋冬の構成で、ランダムに見出しのみ書いてみると、まず春の章酒の洪水、酔醒め、南京豆、大食家、自慢料理、豚料理、豚の刺身、胃袋、脳と胃、物の味、万年スープ、料理の原則、五味、鶏卵の半熟……。
米料理、味自慢、腹具合、硬い肉、蕨のアク、海苔巻き、程と加減……。
鮎の味、下等料理、昆布スープ、食物研究会、合い物、ライスカレー、琺瑯鍋……。
滋養スープ、牛の脳味噌、松茸売、肉の区分、パンの種、林檎のパイ、兎のシチュー……。
と、まぁ、こんな内容が600話以上あるのです。あらためて読み直すと、明治期にこれだけの内容で食について書かれていたのには驚かされます。
一応流れは時間での小説の形を取っているのですが、筋と関係なくそれぞれの項目を読んでも面白いのです。

村上弦斎は、幼少から漢学を学ばされた上にロシア語の家庭教師がつき、12歳で東京外語学校に入学しましたが、勉強のし過ぎで体を壊し、中退します。
渡米して英語も学び、新聞記者から小説家・大ベストセラー作家になります。平塚の大豪邸に住みながらも、断筆後は竪穴住居に住んで、自分で生きた虫や加工しない自然の食べものしか食べなかった……。
どうですか、相当面白い人物ですね。興味津々です。ある意味で今日の食をすべて一人で実践し、思考し、執筆したのです。
これはスーパーフードライターそのものです。現在こんな形のフードライターはどのくらいいるでしょうか。この時代の少ない情報量を考えると、知識や中身のコンテンツも凄いものがあります。
少なくとも、これからフードライターを目指す人は一読しておくべき本ですね。
(つづく)

2012年11月21日水曜日

職業としてのフードライター……3

フードライターの話から随分それてますが、昨日の続きです。

ホテルの一流レストランで、女性フードライターをエスコートするために、レストランの予約時に花束もお願いして(これを5~6軒行くのです)いざ、レストランに行きます。
ハルコのお相手は微妙にアラフォーギリギリで、花束を贈る内容は“転職祝い”。あぁ、無理があるなぁ~~。
お店の方がハルコに花束を見せて、ハルコが合図してテーブルまで持ってきてもらうのですが、相手の女性はさもびっくりしたように演技しなくてはならず、お互いに笑いを堪えるのが大変でした。
編集長の方は、何せ花束を渡す相手が森脇慶子さんなので、電話で「森脇さんの退院祝いにすれば」と言っておきましたが、果たしてどうなったのやら。
一人のライターさんに至っては、ハルコから大きな花束を3度も受け取って、自分の人生でこんなに花束を貰ったことは無かったとのことです。


かくもダラダラ書いてますが、話は森脇慶子さんなのです。
編集者やライターから、フードライターとして専門化した初期の女性は森脇慶子さんだと思うのですが、どうでしょうか(あまり自信はありませんが)。
確かに岸朝子さんのような料理記者の草分けもいますが、岸さんの本質は編集者で、森脇慶子さんはやはり元祖フードライターでしょう。
フードライターと書きましたが、彼女はフードファイターでもあるのです。
あの細い体にどのくらいの食べ物が入っていくのか不思議なくらい食べますね。そして、まさに命がけで食べている姿は壮絶でもあります。
初めて会ったのは確か恵比寿の「あたごうる」で、紹介してくれた講談社の編集者曰く「食べる凶器森脇慶子」もう、四半世紀前の事ですね。

森脇さんの紹介で、創刊された「ダンチュウ」でハルコもフードライターのマネ事をさせれたり、随分と料理屋さんでご飯も食べたし、仕事で本も幾冊か作りました。
路地から路地を、嗅覚と勘を頼りに店を捜す能力は他の追従を許さないフードライターです。
食がまだデジタルで無い時代から、森脇慶子さんはハルコにとって戦友のような存在なのです。
そうそう、前に銀座の「トトキ」で焼酎とフランス料理の組合せの会があった時、陰謀で(笑)森脇さんの隣にさせられたのです。
何故かって、森脇さんは全然お酒がダメなので、ハルコは彼女の焼酎を全部飲むはめに(自分のも入れて倍!)。
いや、森脇エピソードだけで本になるくらい面白いネタがあるのに。そろそろ、森脇慶子フードライター伝でも書いてくれないかぁ。
最近はパーティで会うとお互いによく生きているねと、ジジババ会話で盛り上がり……。
彼女を見るとハルコも頑張らねばと思うのでありました。
(まだ地雷は踏んでいない! つづく)

2012年11月20日火曜日

職業としてのフードライター……2


出版関係の仕事に携わって、早30数年の月日が流れました。
昔、というと年寄りじみてきますが、雑誌文化の勃興期から仕事が出来たのは幸いだったと思います。
編集者とライターの区別は当然ありますが、現在でも一部新聞社系の出版社では、編集者のことを“記者”と呼んでいますね。雑誌編集者、雑誌記者微妙に違う様な違わないような……。

小さな出版社なら編集もライターも、はたまた写真も撮る、というようなケースもありますが、大手出版社は完全に分業化されています。
食の範囲も幅広いので、判りやすいレストラン取材を例に取ります。
まず、編集部(編集長)として何をどう取り上げるかが“検討”されます。媒体によって随分内容が違いますが、季節やテーマ(例えば祝いのレストランなど)に沿ってレストラン選びが始まります。
媒体の“クラス”により、選ぶ店は雰囲気や価格帯で違ってきます。夜のコースで5000円の店に、お一人様25000円の店は登場しません。
以前ならリサーチは大変でした。まず、その店を取り上げるために一度は覆面で食べに行くのですが、最近はそんな余裕はありませんね。まぁ、こんな店まで取り上げるの?(店の記事を読んで食べに行き、エラい目にあうこと)というケースも無きにしもあらず。

一度凄く変な仕事を引き受けた事があります。
フードライターさんとレストランに行き、エスコートするという内容です。
編集部と、ホテルの一流レストランでは客のどのようなわがままが効くかという内容で、レストランを予約する時からスタートします(かなり恥ずかしい!)。
エスコートする女性(二人のライターさん)には、一度も面識がありません。
まずレストランに、「○月○日の○時に予約したいのですが」
と、ここまでは普通ですね。
その後に「連れの女性に途中で花束を差し上げたいので、用意していただけますか」
ほら、もう相当恥ずかしいでしょう。
設定を考えると、どう考えてもオジさんが若い(?)女性にレストランで花束をプレゼントするというシチュエーション!
何か下心が無いと逆におかしいのですが、ハルコは電話で「えぇ、彼女の転職祝いですが」と言ったのです。
このエスコート役をハルコと編集長がするのですが、編集長のエスコートする相手は、こともあろうにフードライター界の重鎮森脇慶子さんだったのです!
風雲急を告げる怒濤の解決篇は明日に続くのだ!

2012年11月19日月曜日

職業としてのフードライター……1

だんだん寒くなってきました。これから、朝起きるのが辛くなりますね。

昨日は東北復興支援第4回東京グランメゾンで、チャリティカレーというイベントがあったのでアピシウスに行き、その後レカンの行列も見に行きましたが、大盛況でした。
普段敷居の高いレストラン子ども連れでに行ける、というのもフランス料理の層を広げるという意味でも効果があるのではと思いました。

先週は「職業としての料理研究家」をブログで書きましたが、食に関しての情報発信をするダイレクトな職業としての“フードライター”を考えてみます。
このテーマの骨子は、ネット以前・ネット後というのがキーワードになります。
それまでは一部特殊な人々の職業(仕事)だったのが、誰でもネットで発信出来る時代になると、それまでの境界線(プロ/アマ)が無くなりつつある、ということです。
かつては紙媒体が情報発信の場で、今はネット上で自分が媒体になり簡単に情報発信が出来るというのは、紙媒体時代には考えられないことでした。

ここでフードライターという言葉を使いましたが、その内容は千差万別です。
オートキュイジーヌの料理評論から、いわゆるB級グルメの発信者など、現在ではかなり専門分野化しています。
また、外食のリサーチレポートをまとめる人から、それらをアンカーマンとして整理する職業まで、これも相当幅がありあます。
外食産業ばかりではなく、生産者の現場や流通、消費の立場での発信者まで入れると凄い数になるでしょうね。
さらに「食べログ」などの書き込みや、ブログなどで誰でもフードライター化した時代での食のジャーナリズムのあり方を考えてみたいと(多少自分で地雷原を踏む様な気がしますが)、数回にわたり書いてみます。

料理研究家の皆さん以上に、ハルコはフードライターの知人友人が多数いるので、敵に回したくないのですが(笑)、辛辣なことも書くやもしれません。
(つづく)

2012年11月16日金曜日

職業としての料理研究家……その5

料理研究家ってどんな職業だろう?という疑問だけで、思いつくままに書いてきましたが、エンドレスな内容になりそうなので、今日が一応最終回です。


昔、フリーランスになった頃、ある仕事(もう、何の仕事かも思い出せない!)の最初の打ち合わせの時に行った時の話です。
まず、名刺を出して自己紹介するのですが、相手の女性がハルコに名刺を出して「わたくし、詩人です」とおっしゃったのです。
いや、衝撃的でしたね。
詩人ですよ(全国の詩人の方他意はございません)。生まれてはじめて、詩人という方に会ったのですね。
その時に、「詩人って職業?」と思ったのです。確かに職業ですが、詩を書いてどのくらいの人が生計を立てられているのか。
その女性も職業は“詩人”で、仕事はコピーや原稿を書いて生計を立てているとのことでしたが、キッパリ「詩人です」とおっしゃっていたのです。

話は元に戻り、料理研究家は職業名で、仕事は例えば料理教室を主宰したり(王道ですね)、レシピを考案して雑誌に発表したり……。活躍の場はたくさんあります。
ここからは私論です。料理研究家という職種職業は昔に比較して随分増加していると思います。
ハルコは本業の傍ら(これも何が本業か不明ですが)、「現代食文化研究室」という名称で日々“食文化”の研究(?)をしているのです。

日本が太平洋戦争(第二次世界大戦)の最中に食糧事情が悪くなり、喰うや喰わずの世の中で戦争中の親世代は、子ども達次世代に家庭の味や料理レシピを伝授出来なかった、と仮定します。
本来は、母娘を軸に伝わるはずの料理が途絶えてしまった。そうすると、次世代は本来母親から教わるべき料理や、調理技術がまったく無いままに成人したベビーブーム世代が、花嫁修業のために料理学校(江上料理学院のような)に通い始めて活況化します。
やがて結婚したベビーブーム世代には、豊かになった日本の食生活を背景とした多国籍の料理が溢れ、ここに多くの“料理を研究する人”のマーケットが創造されたのではないでしょうか。
その中から、さらに次世代の料理研究家が生まれて、食ばかりではなく生活全般への提案と憧れという形で料理研究家がスター化していき、その活動を受けてさらに料理研究家は職業としての需要に支えられて、層を厚くしたのではないか……と、ここまでがちょっと大雑把な流れだとハルコは考えるのです。

そして現在料理研究家自体の飽和と、ネットでの新しい世代の出現により、大きく変化しているのも事実です。
ネットで自由にレシピが手に入り、簡単に誰でも手軽に“ネットを通じて教わる”時代に。さらに、自分の料理を写真とレシピ付きで発表することもできるのです。
プロとアマの区別の付け難いものは、コンピュータやインターネットの発達により顕著になりました。
少しネット時代の料理研究家を研究してみましょうか。
うむ、ハルコの肩書きは「料理研究家の研究家」!

2012年11月15日木曜日

職業としての料理研究家……その4


テレビ東京で、朝8時から「世界の料理ショー」を再放送しているのにはビックリしました。今から35年以上前に放映してた番組ですね。

ハルコは、この「世界の料理ショー」ラハム・カーの大ファンだったのです。
カナダの料理エンターテインメント番組で、料理研究家のグラハム・カーが、スタジオの観客の前のキッチンでユーモア溢れるトークをしながら、絶妙なテクニックで料理を作ります。最後に、スタジオに来ている客の中から一人を選び、作った料理を一緒に食べるのです。
その時の、食べているグラハム・カーとお客さんの顔というのが、とても良いのです。その当時20代だったハルコはテレビ画面を見ながら、涎を流さんばかりでした。
ある意味で、この「世界の料理ショー」を見てから、料理に対して興味が出てきたのかもしれません。
画面に登場しない“スティーブ”を相手に、助手も出て来るわけではなく、シンプルに流れるように料理を作る番組のコンテンツは、今でも最高だと思うのです。
彼はこの番組のための用意やリハーサルに、19時間もかけていたそうです。
グラハム・カーの奥さんが番組のプロデュースをしていましたが、夫婦二人が交通事故に逢い、番組は終了したのです。
そして、1990年に「新・世界の料理ショー」として復活しますが、前に比較して低カロリー健康指向に変わったのは、カー夫妻と社会が変化を求めたということでしょう。

料理研究家の最大の売りとしては、トークがいかに上手いかだと思います。
レシピや原稿をまとめる能力と同時に、第3者に判りやすくメッセージ伝える能力は重要です。
これがプロの料理人だと、喋るのは上手でなくても良いのですが、やはり客商売ということで、皆さんトークはお上手です。
フランスで最初にテレビで料理番組を持った「グラン・ヴェフェール」のレイモン・オリヴェは、三つ星シェフの腕前とトークの上手さで一時代を築きました。

ある意味では、料理研究家はサービス業の一種です。
マスコミに登場する料理研究家の皆さんはトークのお上手な方が多いですね。
それぞれ優しく言う方、叱りつけるような言い方をする方、ユーモアのセンスのいい方と、個性豊かです。
料理サロンに生徒として来られる人たちも、先生のトークを楽しみにしていることも多いようですね。

料理研究家は「一にトーク、二に料理」と言ったら叱られるでしょうか。
また、マーサ・スチュアートのように、ライフスタイル全般を憧れの対象とした料理研究家は、次回に続きます。

2012年11月13日火曜日

職業としての料理研究家……その3

わが家にテレビが来たのは1961年(だったと思う)、ハルコは小学1年でした。
学校から帰ると、玄関に巨大な木の箱(木ですよ!)があり、部屋に上がるとテレビがありました。テレビを買うなんて聞いていなかったのでびっくりしました。
田舎ゆえに、チャンネルはNHK第1と教育放送に地元ローカルの3局のみ。
母と伯母がいて、一緒に見た最初の番組が「NHKの今日の料理」でした。モノクロ画面に今でも使っている冨田勲の♫タンタカタカタカ~タンタンタン♫が聞こえてきて、「こんにちは、えがみ とみ でございます」と話しはじめました。
わが家ではじめて見た番組が「NHKの今日の料理」というのは、何だかハルコの未来を予見していたのでしょうか。

江上トミさんがハルコがはじめてテレビで見た料理研究家だったのでしょう。
ハルコも早速「江上トミでございます」と物マネのレパートリに……(どんな小学生だ!) その江上トミさんのテレビでの露出が、現在に繋がる料理研究家の草分けではないでしょうか。
熊本の名家に生まれて、19歳で結婚した婿養子の夫の最初の赴任地(陸軍関係)で、東京は本郷の東京料理学校で料理の基本を学び、1927年に夫の赴任地パリのコルドン・ブルーで2年間フランス料理を学び、帰国して知人達に料理を教えていたのが大評判になったそうです。
戦後に夫が公職を退き、一家を支えるために福岡で料理教室を始めて、1949年に「江上料理高等学院」を開校しました。
もう15年以上前の話ですが、福岡時代の江上トミさんの生徒で、その後東京で料理研究家になった方と仕事をしたことがあります(その方はもうお亡くなりになってます)。
生徒も多く、随分盛況だったようですね。
その後、江上料理学院は東京に進出し、戦後のベビーブームと花嫁修行で入学者が3000人にもなったのです。
そしてNHKの「きょうの料理」が始まり、「江上トミでございます」に繋がるのです。
この時代に活躍した江上トミ、飯田深雪、土井勝、村上信夫、辰巳浜子、辻嘉一、小野正吉、陳健民、玉馬煕純……。と、テレビ創世記の料理番組の巨匠達ですね。


元帝国ホテル総料理長・村上信夫さん(写真提供/帝国ホテル)

一度、帝国ホテルの現総料理長田中健一郎さんに取材した時に、村上信夫さんが「NHKのきょうの料理」に出ているのを見てから料理人を目指したと伺いました。
現在の料理研究家のベースには、テレビに出演していた方々の影響があったのは、まぎれもない事実なのです。
(つづく)

2012年11月12日月曜日

職業としての料理研究家……その2

ハルコは昔、勤めていたデザイン事務所で『家庭画報』のデザインをしていました。当時はまだ四大婦人雑誌全盛時代で、後発の家庭画報は200ページ足らずの薄い雑誌でした。

その頃から他の婦人誌と違い、家庭画報の巻頭は料理を中心にした編集方針で、そこには多くの料理の先生達が登場していました。
ランダムに書くと、牧田文子、城戸崎愛、河野貞子、飯田深雪、江上栄子、遠藤功、川上のぶ、波多野須美、入江麻木、高見沢たか子、ポンツィオ・トモ子、阿部なを、末村順子、村上信夫、入部隆司、土井勝、小川忠彦、志の島忠、千澄子、春田光治、村上昭子、清水信子、小野正吉……。
さて、どのくらい顔と名前が一致するでしょう。
その頃は、料理を作る人もプロの料理人、料理研究家、玄人に近いアマチュア、調理師学校の先生……と現在の様に料理研究家はそんなに多くはいませんね。
やがてハルコはフリーランスになり、事務所を構えて仕事を始めましたが、料理研究家の名前は知っていても、直接会って仕事をするという接点や機会は、まだありませんでした。


はじめて生(?)の料理研究家に会ったのは、それからまもなくの『ファミリーサークル(アメリカでその当時400万部発行されていた日本版)という雑誌の忘年会でした。
今でこそ、男性でイケメン料理研究家は沢山いますが、“元祖イケメン料理研究家”といえば、この人でしょう。
入江麻紀最後の弟子(入江麻紀の娘は入江美樹で小沢征爾の奥さん)で鮫島正樹さんです(写真は青山にあったカンセイで坂田シェフ、鮫島さんにハルコ)。
今でもダンディですが、その当時は料理研究家でモデルと、マダムキラーでした。



鮫島さんとも20代からの付き合いですが、その編集部のアルバイトに現在料理研究家になった川津幸子さんがいたのです。
『ファミリーサークル』編集部から、世界文化社へ。さらに『オレンジページ』の料理チーフとして創刊に関わり、フリーになり栗原はるみの『ごちそうさまが、ききたくて』や、山本麗子の『101の幸福なレシピ』を編集した後に、エコールキュリネール国立でフランス料理を学んだのです。
その当時、自ら料理を作り編集する料理研究家になろうとは、ハルコも川津幸子さんも思っていなかったでしょう(写真は30年前にハルコが企画したボジョレーヌーボの会にて。右奥には酒井一之さん)。
料理が好きで、編集の世界からアプローチして料理研究家となった彼女は、「100文字レシピ」などの本ではさすがの優秀な編集者としてのアプローチは新鮮でした。
(つづく)

2012年11月9日金曜日

職業としての料理研究家……その1

この所曜日感覚が無くなっています。
12月1日に発刊する健康系の雑誌の創刊で追われてます。若い時は雑誌の仕事も楽しいですが、歳と共に雑誌の仕事はつらい物がありますね。
単行本などの書籍と違い、雑誌は取り次ぎ搬入発売日を厳守しないと“事故”になってしまいます。


さて、昨日はその雑誌の撮影で立会をして、料理研究家の奥園壽子さんと初めてお会いしました。今まで奥園さんとは間接的には仕事をしていたのですが、それも奥園さんがタレント化して、ホリプロ所属になる前です。
撮影をしながらふと考えたのは、「職業としての料理研究家」とは何か、ということです。
これが「料理研究家の仕事」ならば、内容は料理教室で教えたり、料理のレシピ本を出したり、講演会をしたり、企業の商品開発やらコーディネートなどがありますが、「職業としての料理研究家」ってなんだろう?と考えたのです。

普段からプロの料理人以外に、料理研究家、フードコーディネーター、フードスタイリスト、テーブルコーディネーター、○○料理研究家……という肩書きの方達とお付き合いもあり、数えたことはないのですが、相当数の方達と知り合い、随分一緒にお仕事もしております。
失礼を顧みずに言うと、パーティなどで石を投げると料理研究家の方達に当たります。
考えると不思議です。なにせ、“料理を研究する”のです。広義で捉えると、料理を研究するのであれば、ハルコも料理研究家ということになります。
でも、世間一般での料理研究家というのは、それとは別なイメージですね。
しばし、来週から料理研究家について考えてみます。
本日は予告編です。

2012年11月8日木曜日

包丁いっぱい

今日11月8日は岐阜県関市の包丁供養“いい刃”の日です。今日で包丁のお話は一旦お休みです。

現在ハルコ所有の包丁は、自宅、事務所、新潟のダーチャの3カ所にあります。以前も書きましたが、実は何本あるか判りません。
自宅のキッチンの一番上の引き出しには、ペティナイフだけでも10本近くあります。大きさや用途(少し波刃)で違いはありますが、最初に手に触れたものを使います。
その他に、各種の包丁のうち使用頻度の高い包丁は、流し台の扉の包丁挿しに10本ほどあります。

さて、そこから先が不明です。
昔買ったフランス製の包丁セットが専用のケースに入っていたり、京都の木屋で買ったハルコの名が刻まれている包丁は、使用した後は箱の中にしまい込んでます。
さらに使用頻度の少ない出刃包丁、柳刃包丁は、箱や新聞紙にくるんで何処かに分散しています。数えるには全部探し出さないと無理ですね。
新潟のダーチャには自宅ほどはなく、使用する分の包丁が10本程度でしょうか。

家庭で普段使いの包丁は、まず万能包丁三徳包丁と言われる、野菜、肉、魚など、何でも切ることの出来る包丁(180mm)が1本と、小型のペティナイフが1本あれば、たいていの料理には取りあえず間に合います。

ここからさらに包丁を増やしていくのであれば、冷凍食品やパンを切る波刃の包丁は必需品です。
余裕があれば、野菜専用の菜切り包丁、肉を切るために長めの牛刀(シェフズナイフ)、魚をおろす出刃包丁、刺身を引く柳刃(刺身包丁)まであれば、大概の物は切ることができます。
あと重要なのは、刺身や魚をおろすのには、諸刃(両刃)ではなく片刃がお勧めということですね。素材はさび易い鋼ではなく、ステンレス製で充分です。
これに、砥石の中砥と仕上砥を持てばパーフェクトですね。

2012年11月7日水曜日

包丁5本


雑誌のハルコ連載などの取材で、多くの料理人の方々の包丁を拝見させていただきました。
また食事に行った際も、料理人さんから包丁の話を聞きながら、包丁を見せていただきます。場合によっては包丁を握るのを許してくださる奇特な方もおります。

これは、おおよそ100名近くの料理人さんから見聞きした、包丁への思い入れ度の比較感想です。
関心度が強いジャンルから見ると、ダントツの1位は鮨やさん。次に和食・日本料理に、3位はフレンチ、4位は中国料理で、最下位はイタリアンです(ハルコの感想です)。
中には、現在フレンチだけど日本料理からイタリアンへ行き、フレンチになった料理人がおり、牛肉の塊を和包丁で引く方もおりますが、これは例外ですね。

やはり魚介、特にお造りを扱う料理人は包丁への思いが強いですが、鮨職人さんには負けますね。
「はしぐち」の橋口さんから聞いた話は、店が終了後に毎晩包丁を研ぐのですが、研ぎ過ぎて、刃先が小さく(カンナの削りを想像してください)“返し”になって手を切ることがあるそうです。
また、銀座の「小笹寿し」の寺嶋さんは、柳刃包丁を長年研いで研いで、使う半分の長さになっても使い続けて、柄は3度も細くなり替えたというのも聞きました。
お客さんから預かった鋼の包丁を、研ぎ直して上げたのを見せていただいた事があります。こんな話が山ほどありますが、またの機会に。
(つづく)

写真はハルコの包丁指南本で、台湾でも中国語でも出版されたのです(少し自慢!)。

2012年11月6日火曜日

包丁4本

自分で「包丁○本」とタイトルにしましたが、当然包丁の数え方“本”でも“挺・丁(ちょう)”でもよくて、柄のある道具は”柄(へい)”とも呼びます。
同じような切る道具の「刀」の数え方は意外に多く、本・振り・口(ふりくち)・口(こう)・腰(腰)・刀(とう)・剣(けん)・匕(ひ)があります。匕は肉を切るための短剣や懐剣を表し、短剣を数える語です。

と、書くくらいに包丁と刀は非常に近い仲間ですね。
鮪包丁になると刃渡りが150cmになるくらいの物もあり、こうなると普通の刀よりも長いのです。
地域での違いはありますが、実際に和包丁と刀の各部分の呼称は相当重なっています。日本刀鍛造包丁と呼ばれる包丁は、軟鉄と鋼の鋼材の合わせ方が似ているのです。


写真はハルコがデザインして、四国の刀鍛冶さんに依頼して造ってもらった包丁です。峰の所をもう少し山にしたかったのですが、ちょっと違いますね。
波紋といい、これは日本刀とまったく同じですが、片刃の和包丁なのです。
片刃と書きましたが、皆さんはご存知ですよね。
刃が片方に付いていて、両方に刃が付いているのは「諸刃(もろは)」と言います。
「両刃(りょうば)」という言い方もありますが、本来両刃は剣や鋸のように両方の側に刃が付いているものを指します。

ともあれ戦国時代が終焉した時点で、刀鍛冶は包丁などの道具作りになり、さらに明治維新後に廃刀令が出て、民生用に転じたのですね。
毎年1月に「世田谷ボロ市」がありますが、昔はこのボロ市で素晴らしい鍛造の包丁が随分出ていたそうです(これは、魚柄仁之助さんから聞いた話です。魚柄さんは骨董商をしていたそうです)。
何故かというと、明治維新後に刀鍛冶が仕事を無くして、世田周辺に住みはじめて包丁作りをしていた名残りなのです。そのため、世田谷ボロ市では鍛造包丁が多く売られていたそうです。

2012年11月5日月曜日

包丁3本

ブログの包丁○本は、11月8日の関市での包丁供養「いい刃」まで書く予定ですが、タイトルを付けた本人があまり面白くないなぁと思ってます。

先週の金曜日は、前日からの続きで朝の8時から夜の7時まで、ぶっ通しで包丁の撮影をしておりました。
貝印の商品開発から販促までのアドヴァイザーをしているのですが、包丁関係でもかなりお手伝いしているのです。


ハルコは外部のプロの料理人さんに貝印とのコラボ企画を持ちかけて、貝印と契約していただき、商品開発を手がけているのです。
その中の一人に、「トゥーランドット臥龍居」の脇屋友詞さんがおります。
脇屋さんには色々と協力していただき蒸し鍋なども作りましたが、やはり、一番作りたかったのは中華包丁です。
中華包丁というと、「ごつい」「重い」というイメージですが、家庭用でもっと使い易く、と考えて2本(丁)デザインしたのです。
ひとつは、中華ペティで小型で普段使いに、もうひとつは大型の中華包丁です。
しかし、大型の中華包丁は矛盾を抱えているのでした。
重い中華包丁は素人には扱いにくい包丁で、軽量化を図りましたが、本来は包丁自体の重さで素材を切るものなので、どの程度軽くするかというのが悩み所でした。

秋からのフジテレビ系の新番組で「アイアンシェフ」が始まり、脇屋さんがアイアンシェフとして登場、現在貝印は脇屋さんの包丁サポートをしております。
写真は「アイアンシェフ」第1回で脇屋さんが使ってくれたハルコデザインの中華包丁です。
本式には、同じく貝印で開発したミシェル・ブラスの中華包丁がプロユースだと思いますが、Wakiyaマークの中華包丁も良い包丁ですよ。
(続く)


2012年11月2日金曜日

包丁2本


朝から貝印で包丁の撮影をしております。
オッホン! 今日のハルコは包丁の使い方・切り方の先生です。
えっ、ハルコにそんな高度な仕事が出来るのかって?
てへ、なりゆきです。

昨日は撮影の最初に、カメラマンさんが手を切ってしまい、4針も縫うことになり、今日までずれこんでしまったのですよ。
引き続き、撮影がんばります!
(続く)

2012年11月1日木曜日

包丁1本

ブログをはじめて1年以上になりますが、包丁のことを書いた記憶がありません。
食や料理の事はほぼ毎日買いてますが、そう、包丁は書いてませんね。

包丁はハルコにとって大変重要な意味を持っています。
初めての自著が包丁の使い方の本だったせいもありますが、包丁が好きなんです。別に怪しい意味ではなく、料理に無くてはならないし、調理していても切れる包丁は料理自体も楽しくしてくれますね。
仕事をしない日があっても、旅行中を除けば、ほぼ毎日包丁のお世話になっています。

全国の刃物産業のある地域では、それぞれに包丁供養があります。岐阜県の関市では、今月の11月8日(良い刃)は包丁供養の日です。
包丁1本さらしに巻いて、修業に出たのは板前場の修行ですが、ハルコも割烹着に三角巾姿で、延べ80人以上の料理人さんの元に修行に行きました。
これから、何回か包丁修行と包丁のお話を書きたいと思っております。
今日はこれから、貝印で包丁の使い方の撮影があり、監修者の立場で出かけます。

写真は、ハルコが作った貝印の一般向けの「包丁入門 基本のキ」と、社内向けの「貝印包丁マニュアル」です。


「包丁入門 基本のキ」(写真左)と「貝印包丁マニュアル」(写真右)