2012年1月14日土曜日

食の批評へ……批評の責任


雑誌等で料理店への取材依頼をすることは多々あります。
何回も通って顔馴染みの店なら問題はないのですが、数の多い取材となるとアポ取りも大変なものです。
仕事仲間と組んでやるので、ハルコは直接電話してるわけではないのですが、側で電話依頼をしているので耳に入ってくるのです。
その際、店の側から「お金を取るのか?」という質問が多くあります。おそらくフリーペーパー等の、集広的な取材を想定してのことと思います。
取材は基本的に相手に対して、取材謝礼(あるいは料理実費)を支払うのが大原則です。

昔から、食の批評に関して金銭にまつわる不快な話は多く耳にします。
食の批評を本業としている方々がどのくらいるかは判りませんが、はっきり言って食の批評でお金を稼ぐというのは、非常に無理のある世界です。
幾ばくかの原稿料や出版化されて印税が入ってきても、それ以前の取材費としての投資はバカにならない金額です。
また、食べるというのは相当に肉体を酷使します。加齢と共に食も細くなるのが普通です。

ハルコ自身も30代頃から食に対しての関心が出て来て、まずどうしようかと考え、「食べること」と結論付けしてひたすら食べようと邁進しました。そして、10年で1億くらいのお金を食べることに使ってしまいました。
その結果何が残ったかというと、借金と身体を壊してしまったことです。しかし、その経験・体験は現在食を考える時に得難いことだったと思います。

随分前から「自腹・ジバラン」という批評のジャンル(?)がありますが、それは職業フードライター諸氏への不信感の現から出て来たもので、「ZAGAT」から始まる“消費者による評価”で、それがインターネットを介して発展してきた「食ベログ」等への流れだと解釈しております。
問題は食はあくまでも個人の範疇なので、標準化することは難しいことですね。

一部の心ない覆面評論家と自称する方は、「ジバラン」という隠れ蓑で相当悪意に満ちた自己満足のみを追求して、食の世界の発展にならないことをしているのを見ると情けなく思います。
食の批評に、それに伴う「責任」という重要なものが抜けて、害毒のみを流しっぱなしなのは問題です。
この項続く。

●ハルコ・フォトアーカイブ

左上/神楽坂「梅香」の鯛の水煮。右上/浅草「王さま」の餃子。
下/「金太郎飴本店」の金太郎飴と七福神飴。

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