2011年11月24日木曜日

ブランデンブルグ門で考えたこと

11月のベルリンは、零下になるくらい寒うございました。
ベルリンの中心部ウンター・デン・リンデンにあるブランデンブルグ門(Brandenbueger Tor)の前に立って、ハルコは思ったのです。
「やっと、ブランデンブルグ門にたどり着きました」

話はハルコが16歳の頃です(すみません。昔話が多くて)。時は高度成長期、日本がイケイケの頃で、“万博”“よど号事件”“三島事件”のあった年です。
その頃のハルコは純真な心の持ち主で(今の様に腹黒くなくてよ!)、将来はデザイナーかイラストレーターになりたい、と夢想していたのございます(えっ、ハルコってデザイナーを目指していたの?って、思われるくらい最近のハルコの職業が何だか判らないでお付き合いしてる方が多いのも事実)。
ハッキリ言います。ハルコの仕事は「みなさまのお手伝いです」ハイ。


16歳のハルコ作。40年前!

またまた話が横道にそれました。
その頃、ハルコは一所懸命にデザインの真似事をしていたのです。ここに掲載している(あぁ、恥ずかしい!)手描きのポスターは、ハルコ16歳の作品なのです。まぁ、稚拙で見るに耐えませんが、思い出の作品なのです。
タイトルは「ドイツ民族再統一」
黒ラシャの紙に下手なレタリングの赤文字。黄色の紙でブランデンブルグ門を切り抜き、斜めに交わっているのは英字雑誌から切り抜いた西と東が握手をしている図(見えないかもしれませんが)を描いたのでございます。
ブランデンブルグ門の右端が無くなっているのは、紙から剥がれて無くなったのだと思います。

なぜ16歳のハルコ少年がこんなものを作ったかというと、その頃非常にドイツへの関心が高かったのです。
特にウィルヘルム二世が退位して、ワイマール共和国の成立から衰退していくまでの過程に興味があったのです(今、思うと16歳の少年が興味を覚えるような内容ではないし、何を考えていたのでしょうね)。
そして、国家社会主義者が台頭して1933年にヒトラーが政権を取り、悲惨な戦争への道に続く悲劇の時代に関心がありました。その頃ベトナムではまだ戦争が続いており、反戦意識は若年まであったのです。
そのあたりから、第二次世界大戦で分断されたドイツの再統一を願う意味で、ハルコ少年は作ったのですね。

ブランデンブルグ門、40年後。

クアドリガ(四頭戦車)と女神ヴィクトリア。
それから約20年して、ベルリンの壁が崩壊してドイツが一つになり、さらにその20年後にハルコはブランデンブルグ門の下のパリ広場に立っていたのです。
「やっと、40年かかってブランデンブルグ門にたどり着きました」と。

思えば、ヨーロッパにはよく旅行に来ていますが、フランス、イタリア、スペインのラテン系は頻繁に来るのに対して、北のゲルマン系にはあまり来ていませんでした。
ベルリンに着いて思った、水平垂直がきっちりしている都市というのは、ゲルマン民族の性質なのでしょうか。
ヒトラーが政権を取り、その頃敵対勢力だった共産党を引き落とすために、放火された国会議事堂も(もちろん現在は奇麗になってます)ブランデンブルグの側にあります。

ヒトラーの時代に、ある建築家がベルリンの都市計画に参加していたのです。
名前はアルベルト・シュペーア
記録映像(レニ・リーフェンシュタール監督の「意思の勝利」)で観た方も多いと思いますが、ニュルンベルグでナチスの党大会が1934年に開催された、ツェッペリン広場を設計したのがシュペーアなのです。

その後、シュペーアはヒトラーのお気に入りになり、首都建築総監になってベルリン大改造の「ゲルマニア計画」を指導していき、ついには軍需大臣になってしまうのです。
戦争終了後戦犯として20年の禁固刑を言い渡されるのですが、その後書いた手記を16歳のハルコは読んでいたのです。
その頃の愛読書が、ウィリアム・L・シャイラーの『第三帝国興亡史』(全5巻もある)で、ヒトラーの台頭からベルリン陥落までの長い長い歴史本です。

そんなことに熱中していたせいか、ある晩夢を見たのです。夢の中でハルコは“ハンス”という名前でヒトラーユーゲント(ヒトラー青年団)でベルリン大空襲の最中16歳で亡くなってしまい、それが転生してハルコになった、とお告げがありました。
それ以来ハルコの前世はベルリンにいたのだと信じるようになったのですが、果たして……。

●ハルコは何処に!?
ベルリンの宿泊したホテルのカーペットは何と$札の拡大。ハルコ思わず記念撮影。はて、何処に!?

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