2011年11月30日水曜日

ビールとソーセージの日々

旅行から帰って来て“ガ~~~ン”
体重が増えているではありませんか!

この半年、早起きしてウォーキングに勤しんだ日々は、10日足らずの旅行で元の木阿弥になりました。原因が分かっているでだけに、ハルコは非常に癪なのでございます。

その原因は“ビールとソーセージ”なのです。
ビールこそは朝から飲みませんが、ソーセージをパクリ、昼はビールにソーセージ。夜もビールにソーセージ。太らない理由はありませんね。でも旨くて、ビールはがんがん飲むし、ソーセージは踊り食い……。

ドイツといえば世界のソーセージ大国ですね。ソーセージはドイツでは“ヴルスト(Wurst)といいますが。ソーセージは、街中で茹でたり焼いたりして立ち食いもしています。
その中でも人気なものは、“カレーヴルスト(Curywurst)”なのですが、まぁ、寒い中長い行列をしてまで食べてますね。カレーヴルストは、1本の長いソーセージを機械で、1㎝幅の輪切りにして、その上にカレーソースとカレーパウダーをかけて食べるのです。ドイツはソーセージの種類だけで1500種もあるとか。凄いですね。
ベルリンっ子はかなり辛いもの好きですね。やはり寒いせいでしょうか、生姜のお菓子も沢山ありました。

話は変わりますが、旅行に出かけるとハルコは現地の人の体型を観察します。当然、食と体型は関係が大有りのコンコンチキですね。
東南アジアのベトナムやタイでは、あまり太っている人には会いません。ヨーロッパでも同様にフランス、イタリア、スペインではさほど気になりませんが、まぁ、ドイツは“太っ腹”のオジさんの多いこと多いこと。
ドイツは「ソーセージ喰らい(Wurstfresser)「ソーセージ中毒(Wurstvergiftung)というあだ名があるくらいソーセージ好きな民族ですね。

ゲルマン時代からソーセージは食べられていたのですが、“ヴルスト”という言葉が生まれたのは12世紀頃からです。
ちなみに日本でソーセージ(缶詰ですが)が製造されたのは、1930年(昭和5年)。北海道でのことです。日本ではソーセージというと「ウィンナー」を思い浮かべますが、ウィンナーは沢山あるソーセージのひとつで、ウィーンが発祥地です。

何だかビールにソーセージが食べたくなってきました。うむ。こりゃ当分体重は落ちませんね(トホホ)。

2011年11月29日火曜日

ベルリン博物館島……2

博物館島でハルコの一番のお気に入りは、中州の突端にある「ボーデ博物館(Bode Museum)です。
この美術館は1904年にフリードリッヒ博物館(Kaiser-Friedrich-Museum)として開館して、2006年10月に長い改修工事(7年)を経て再開館しました。
彫刻美術とビザンチン美術が主体で、訪れた月(11月20日まで)は、「ルネサンスの肖像画……イタリアの肖像画芸術」が開催されていました。フィレンツェの「ウフィッツィ美術館」パリの「ルーブル美術館」ロンドンの「ナショナルギャラリー」など50以上の有名美術館から150をを越す作品が展示してありました。

いや、ビックリ!何がビックリかというと、有ったのです。ハルコ(リアルハルコ本人)に似ている肖像彫刻が……。
オクサマと池田匤克さん、愛美さん3人が爆笑!! 早速ハルコ(本人)と記念撮影しました。ここに掲載した写真は池田匤克さん撮影(ⒸOffice Rotonda Inc.)で加工までしていただいたものです(何て物好きな!)。

ルネサンス期の肖像画ではやはり絵画の方が有名ですが、彫刻もそれに劣らず凄いものだと、今回一同に集められた作品群を観て思いました。ルネサンスの彫刻というと、ほとんどの方々はまず大理石を思うでしょうが、実は木彫刻やテラコッタも多いのです
ハルコが気になったものは、木やテラコッタに彩色表現したものです。
大理石と違い肌や目の色、皺など細かく描かれており、その当時の人の顔がリアルに再現されているのです。
ゆえに、ハルコは500年も前に似た人がいるのを観て、親近感を持ったわけです。

ひとつひとつ写真を撮りましたが、やはり日本の博物館や美術館と違い、ルールさえ守れば自由に写真をとることが可能な美術館は良いですね。
ちなみにこの展示は、アメリカのメトロポリタンミュージアム・オブ・アートで継続展示されるそうでです。ご覧になりたい方はニューヨークまでどうぞ。

●クールでジビエ
久しぶりにクールに電話したら、YUKIJIさんが「お帰りなさい」と言ってくれました。うむ、ハルコブログをチェックしてたんですね(油断も隙もあったもんじゃないですね。冗談ですが)。
名古屋の鈴木裕子さんと池袋で開催されていた「日本全国物産展」を見学した後に、オクサマと3名で参りました。
さてさて、ジビエ本番ですね。鴨に鹿に野禽鳥と色々楽しめます。いや、美味しくて飲み過ぎて翌日は二日酔い気味でした。
シェフ、またよろしくね。

2011年11月28日月曜日

ベルリン博物館島……1


今回旅行を思い立った最大の理由は、ベルリンにある世界遺産「博物館島・ムゼウムスィンゼル(Museumsinsel)を見学することでした。
この博物館島は宿泊したホテルからも徒歩で行ける場所です。ベリリンには、この博物館島の他にも多くの博物館や美術館が多くあり、ヨーロッパではパリ、ロンドン、ウィーン、マドリッドに比肩する都市ですね。
ハルコにとって旅行の二大楽しみは「食と美術」なのです。そう考えると、まだ未見の美術品をあとどの位見ることが可能なのでしょうか。2年前のロシア旅行は、サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館を観にいくことが最大の目的だったのです。


左/中州にあるベルリン大聖堂。右/大聖堂の上から。

ベルリンの南北に流れるシュプレー川の中州に、5つの博物館・美術館が集まっている場所が「博物館島」としてユネスコに世界遺産に登録されています。東京だと上野でしょうかね。中州に最初に「旧博物館」(なんだか名称がややこしいのです)が1830年に建てられて、その当時のプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム4世が、この中州一渧を「科学と芸術」に関する地域としたのが発端です。
そして、博物館がさらに建設されていたのですが、第1次世界大戦で帝政が崩壊し、紆余曲折し第3帝国(ナチス)時代に各博物館・美術館を結ぶ回廊が設置されたのです。

第2次世界大戦で、戦火を避けるために収蔵品はドイツ各地に分散され、博物館の一部は空襲で受けました。終戦後、ベルリンが東西に分割されソ連占領地域になって、東ドイツ国立博物館になり、西ドイツにあった蒐集品はシャルロッテンブルグ美術館に収蔵されたのです。
東西統一後に、バラバラに収蔵されていたものを、この博物館島を中心に再編纂されて、現在も施設の工事をが進められています。あと数年で周辺を含めて整備されたら、世界でも有数の美と文化の総合地域になります。現在は、まだ工事現場の中を歩いていく様な状態ですが、奇麗になったら再度訪れたい場所ですね。

それぞれの施設は、まず「旧博物館(Altes Museum)一番古い博物館でギリシャ・ローマの芸術品が中心に収蔵。
「新博物館(Neues Museum)は、第2次世界大戦で外壁を残して破壊されましたが、現在は昔の姿に再建されて、エジプト美術と先史時代の遺物を陳列しています。
「旧国立美術館(Alte National Gallerie)19世紀の彫刻から絵画を収蔵。
そして、「ベルガモン博物館(Pergamon Museum)は5館の中でも一番新しく、古代ローマ・古代オリエント美術を中心にして、巨大な“ベルガモンの大祭壇”があるので、時間のない方はここだけも観てください(うむ、何だか旅行のガイドブックのような内容だなぁ)。
ハルコの一番のお気に入りは、中州の突端にある「ボーデ博物館(Bode Museum)です。
この詳細は、また明日。


ベルガモン博物館外観(左)と博物館内部


ボーデ美術館(右端)


池田匡克・愛美夫妻とオクサマ

●関考弘ピアノ・リサイタルとプロセッコ

11月26日に東京文化会館大ホールに“関考弘ピアノ・リサイタル”を聴きに行きました。えっ、ハルコは喰いものにしか興味がないだろうって!? そんなことはありません。オクサマのお供でよく“文化的な”催しに行くのでござます(よく会場で寝ています。オクサマ談)。
まぁ、そんなに詮索しないでおくれやす。イタリア大使館や政府観光局・貿易振興会の催しもので、「イタリアワインウィーク」の最終日にピアノ・リサイタルも行われたのです。関孝弘さんはイタリア在住で長い間日伊の文化交流に尽力を尽くした功績で“イタリア連帯の星勲章(コッメンダトーレ)を叙勲されたのです。
イタリア大使の挨拶から始まり、イタリアの作曲家を中心にしたプログラムは大変楽しいひと時でございました。
終了後はプロセッコを振る舞われ(いよ、太っ腹!)、関孝弘さんの著作(写真)買い求めました。
ご招待してくださったイタリア政府観光局・三浦さん、Grazie!

2011年11月26日土曜日

ウィンナー・シュニッシェル…2

バレエが終わり、“プラフッタ”の新しい店「Piachuttas GASTHAUS zur OPER」に出かけました。本店のクラシックな店内に対して、非常にシンプルでモダンな感じです。
「ウィンナー・シュニッツェル(Winer Schnitzel)がメインなのでハルコは早速オーダー。付け合わせのポテトは別添えでレモンのみとまたシンプル。

今回の旅行で、幾つか「ウィンナー・シュニッツェル」の食べ比べをしてみた写真を掲載します。写真を見ると微妙な違いが判るかと思います。
プラフッタのショップカードの裏には、独語と英語で「ウィンナー・シュニッツェル」の作り方が写真で入っていて判りやすいですね(これも写真参照)。

さて、今回はこの「ウィンナー・シュニッツェル」の正体(そんな大げさなものではございませんが)を明かそうと考えてみたのです。
レシピ自体はシンプルです。仔牛の肉(あるいは豚)を薄切りにして、叩いて延ばし、塩コショウして小麦粉、溶き卵、パン粉を付けてラード(食用油)で揚げます。塩コショウで味つけされているので、レモンを絞っていただきます。

「ウィンナー・シュニッツェル」がいつ頃から食べられたかは不明です。
幾つか説があるようですが、俗説で面白いのは、1848年3月に当時オーストラリア帝国の領地だったミラノで暴動(3月革命)があり、それをラデツキー伯爵が軍率いて譚圧しました(ラデツキー伯爵ってあのラデツキー行進曲で有名ですが、この暴動鎮圧の功績を讃えて、ヨハン・シュトラウス1世が作曲したのです)。その時にハプスブルグの宮廷に、ミラノから「ミラノ風カツレツ(Cotoletta alla Milanese)を持ち込み、「ウィンナー・シュニッツェル」が誕生したというのですが、1831年に発行された料理書にはすでに、“仔牛の薄切り揚げ”という料理があるのです。それに、ミラノ風コトレットはチーズの肉挟みカツレツなので、「ウィンナー・シュニッツェル」とは別物と考えた方が良いようですね。

ウィーン・ハプスブルグの歴史を考えると、アラブ(ムーア人)やビザンチンのユダヤ料理がスペインを経由して、イタリアやウィーンに伝播した、というのが事実ではないでしょうか(まぁ、ハッキリしないのですが…)。
仔牛ばかりではなく、豚肉や鳥肉も材料に使われており、ウィーンを代表する料理だということに間違いありませんね。

「HACKESSCHER HOF」(ベルリン)


左/「LANDTMANN」(ウィーン)、右/ウィーンの空港にて(これは鶏肉です)


プラフッタのレシピ付きショップカード

今回ハルコはウィーンの他にベルリンでも「ウィンナー・シュニッツェル」をいただきましたが、オクサマ曰く、ハルコの読めるメニューはこれだけでしょうって!
まぁ、失礼な! 単に好きなだけですよ。

次回はトンカツソース持参で参ります。

2011年11月25日金曜日

ウィンナー・シュニッツェル…1

ウィーンには予定より1時間も早く着きました(何だかお得な感じですね)。
ホテルにチェックインして、オペラ座でバレエを観るのに余裕が出来て街をブラブラ。
さすがに寒いのでございます。前に食事をしたことのある、1618年創業の「黒駱駝亭」でビールとおつまみで長時間の飛行機の疲れを癒しました。
この店は手前は立飲みで人がゴッタ返していますが、奥には超高級レストランになっているウィーンでも有名な老舗です。

ウィーン在住の、ノリピーこと武田倫子さんにバレエのチケットを取ってもらっていました(ノリピーは残念ながら、この時期は日本でハルコとはすれ違い)。
今回バレエの前に、食事を取るか取らないかでオクサマと協議しました。ノリピーからは、推薦の店に予約も入れてあげるよ、と。

結局食事はバレエ後にすることにして、以前ノリピーに連れて行ってもらった“プラフッタ(Plachutta)の新しい店が、オペラ座の側にあるとのことで捜しに行き、バレエの後に予約をしました。ここは人気の店で、よく予約が取れたなぁと思いますね。
本店のプラフッタはウィーンっ子の大好きな「ターフェルシュビッツ(Tafelspitz)で有名な店で、簡単にいうと牛肉のコンソメスープ煮のことです。前回のウィーンでは2度ほどいただきました。これは、本当に旨い!ハルコ的にはこれにラーメンを投入して食べたい!(そんなアホな)
うま味たっぷりのスープに、ボイルした牛肉(部位を選べる)と野菜がたっぷり入って、味替えのリンゴとホースラディッシュのソースを添えて食べます。
で、この“プラフッタ”の新しい店は「ターフェルシュビッツ」ではなく、今回のテーマの「ウィンナー・シュニッツェル」をメインにしているのですね(いや、前振りが長い!)。

プラフッタのターフェルシュビッツ

日本でもウィンナー・シュニッツェルを出す店は有りますが、日本人にはあまり馴染みが無いかもしれません。何せ日本には“ビフカツ”“トンカツ”がありますもんね。
と、この話はまた明日に続きます。

2011年11月24日木曜日

ブランデンブルグ門で考えたこと

11月のベルリンは、零下になるくらい寒うございました。
ベルリンの中心部ウンター・デン・リンデンにあるブランデンブルグ門(Brandenbueger Tor)の前に立って、ハルコは思ったのです。
「やっと、ブランデンブルグ門にたどり着きました」

話はハルコが16歳の頃です(すみません。昔話が多くて)。時は高度成長期、日本がイケイケの頃で、“万博”“よど号事件”“三島事件”のあった年です。
その頃のハルコは純真な心の持ち主で(今の様に腹黒くなくてよ!)、将来はデザイナーかイラストレーターになりたい、と夢想していたのございます(えっ、ハルコってデザイナーを目指していたの?って、思われるくらい最近のハルコの職業が何だか判らないでお付き合いしてる方が多いのも事実)。
ハッキリ言います。ハルコの仕事は「みなさまのお手伝いです」ハイ。


16歳のハルコ作。40年前!

またまた話が横道にそれました。
その頃、ハルコは一所懸命にデザインの真似事をしていたのです。ここに掲載している(あぁ、恥ずかしい!)手描きのポスターは、ハルコ16歳の作品なのです。まぁ、稚拙で見るに耐えませんが、思い出の作品なのです。
タイトルは「ドイツ民族再統一」
黒ラシャの紙に下手なレタリングの赤文字。黄色の紙でブランデンブルグ門を切り抜き、斜めに交わっているのは英字雑誌から切り抜いた西と東が握手をしている図(見えないかもしれませんが)を描いたのでございます。
ブランデンブルグ門の右端が無くなっているのは、紙から剥がれて無くなったのだと思います。

なぜ16歳のハルコ少年がこんなものを作ったかというと、その頃非常にドイツへの関心が高かったのです。
特にウィルヘルム二世が退位して、ワイマール共和国の成立から衰退していくまでの過程に興味があったのです(今、思うと16歳の少年が興味を覚えるような内容ではないし、何を考えていたのでしょうね)。
そして、国家社会主義者が台頭して1933年にヒトラーが政権を取り、悲惨な戦争への道に続く悲劇の時代に関心がありました。その頃ベトナムではまだ戦争が続いており、反戦意識は若年まであったのです。
そのあたりから、第二次世界大戦で分断されたドイツの再統一を願う意味で、ハルコ少年は作ったのですね。

ブランデンブルグ門、40年後。

クアドリガ(四頭戦車)と女神ヴィクトリア。
それから約20年して、ベルリンの壁が崩壊してドイツが一つになり、さらにその20年後にハルコはブランデンブルグ門の下のパリ広場に立っていたのです。
「やっと、40年かかってブランデンブルグ門にたどり着きました」と。

思えば、ヨーロッパにはよく旅行に来ていますが、フランス、イタリア、スペインのラテン系は頻繁に来るのに対して、北のゲルマン系にはあまり来ていませんでした。
ベルリンに着いて思った、水平垂直がきっちりしている都市というのは、ゲルマン民族の性質なのでしょうか。
ヒトラーが政権を取り、その頃敵対勢力だった共産党を引き落とすために、放火された国会議事堂も(もちろん現在は奇麗になってます)ブランデンブルグの側にあります。

ヒトラーの時代に、ある建築家がベルリンの都市計画に参加していたのです。
名前はアルベルト・シュペーア
記録映像(レニ・リーフェンシュタール監督の「意思の勝利」)で観た方も多いと思いますが、ニュルンベルグでナチスの党大会が1934年に開催された、ツェッペリン広場を設計したのがシュペーアなのです。

その後、シュペーアはヒトラーのお気に入りになり、首都建築総監になってベルリン大改造の「ゲルマニア計画」を指導していき、ついには軍需大臣になってしまうのです。
戦争終了後戦犯として20年の禁固刑を言い渡されるのですが、その後書いた手記を16歳のハルコは読んでいたのです。
その頃の愛読書が、ウィリアム・L・シャイラーの『第三帝国興亡史』(全5巻もある)で、ヒトラーの台頭からベルリン陥落までの長い長い歴史本です。

そんなことに熱中していたせいか、ある晩夢を見たのです。夢の中でハルコは“ハンス”という名前でヒトラーユーゲント(ヒトラー青年団)でベルリン大空襲の最中16歳で亡くなってしまい、それが転生してハルコになった、とお告げがありました。
それ以来ハルコの前世はベルリンにいたのだと信じるようになったのですが、果たして……。

●ハルコは何処に!?
ベルリンの宿泊したホテルのカーペットは何と$札の拡大。ハルコ思わず記念撮影。はて、何処に!?

2011年11月23日水曜日

アンペルマン


皆さんは“アンペルマン”をご存知でしょうか?
ハルコの事務所のスタッフ(女子3人)にに聞いたら、一人だけ知っていました。まぁ、日本では知名度は低いですね。

 “アンペルマン”とは、直訳すると“信号の人(Ampelmann 独語ではAmpelmännchen)という意味です。信号機の“進め”“止まれ”のマークがアンペルマンなのです。
今回の旅行の楽しみの一つはアンペルマンショップで色々なアンペルマングッズを見たり、購入することでした。

アンペルマンは、旧東ドイツで信号機に使われていたピクトグラムのことです。マークともいいますが、ピクトグラムとマークは厳密には違います。
マークはそれ自体が解るものも、“何だか解らない”というのもマークです。ピクトグラムは、難しく言うと「事前の学習なしでも、即物的に判る伝達効果」のことで、記号とも違います。加減乗除の+-×÷は学習していない人(例えばハルコ)には何だか判らないものです。
ピクトグラムを和訳すると「絵文字」「絵ことば」という意味になるでしょうか。今は至る所で目にしますね。特にその国の言葉を解さない人々にとっては、公共交通やトイレの場所等と大切なものです。

話は旧東ドイツの信号のアンペルマンに戻ります。アンペルマンは、1961年にカール・ベグラウさんが安全で高い心理的効果に基づいて考案されたものです。
東西統一に伴って、信号機も西ドイツ(ベルリン)に統一されそうになりましたが、長年慣れ親しんできた東ベルリンの市民が「アンペルマンを救え」と、西側からも運動を起こして生き延びたピクトグラムです。
ベルリンで宿泊したホテルが旧東ベルリン地区で、至る所にアンペルマンの信号機がありました。でも、旧西ベルリン地域の信号はスマートでちょっと味気ないですね。
ドイツは統一前に来ただけで、ベルリンも初めてでしたが、街の印象は水平垂直がきちんとしているなぁ、と感じました。
デザイン的にきちっとしているけれど、“味”がない。それでも生き残った信号のアンペルマンを見ていると、暖かさと優しさに、哀愁を感じてしまいました。
統一で流れの方向は決まっていましたが、何だか東側の人達の意地を感じるのはハルコだけでしょうか。最近は逆に旧西ドイツの町のハイデルベルグやシュトゥッガルトでもアンペルマンの信号機が設置され始めたそうです。
ドレスデンの信号もアンペルマンだそうですが、残念ながら滞在時間が短く見られませんでした。

また、信号のアンペルマンは今やキャラクタ-化されて、色々なデザイングッズになっております。
ショップの入口には、アンペルマンのキャラクタ-を冠したカフェレストラン「HACKESSCHER HOF」がありました。ハルコはここでなぜだか“ウィンナー・シュニッツェル”をいただいたのです。


喜んでアンペルマンバッグを購入して、肩にかけて数日ベルリンを歩きましたが、誰もアンペルマンを持っている人には会わず……。
東京に帰ってアンペルマンバッグをしていたらオクサマから“変!”の一言!
トホホ。あんなにベルリンで“光って”いたのに。