2011年10月1日土曜日

ホテルから街場へ…クラブ・デ・トラントの時代 1

机の上に1981年発行の雑誌があります。
雑誌の誌名は『饗宴』で、これを発行した出版社も倒産してもうありません(ちなみにハルコもこの出版社が倒産した時に多大な被害を受けました。まったく、もう!)。
かつて、バブル期に空前のグルメブームがありましたが、この雑誌はその当時の先端を行ったものでした。書き手も、その後の日本の料理批評をリードする人材の宝庫でした。佐原秋生、山本益博、見田盛夫……その他豪華執筆陣です。

さて、その第4号・1981年秋号(季刊で五冊しか出ていない)の後半に、四谷の迎賓館を背景に12人のトックコートに身を包んだ30過ぎのオジサン(いゃ、失礼)…シェフの方々が腕を組んで映っています。
そこに書かれているのは、
「ホテルから街場のレストランへ、
最近のフランス料理の流れはしだいにこのようになりつつある。
本国でのヌーヴェル・キュイジーヌに呼応するかのように、
日本でもフランス料理を若返らせた街場の料理人たちがいる。
30歳以上のシェフ(たち)が集まったオーバー・サーティのメンバー16人。
かれらの目指すところは、たんなる同業の連帯だけではない。
高品質の魚、肉などの共同仕入れから、
ゆくゆくはフランスワインの買い付けまで広がる。
フランス料理の未来にとって、かれらに寄せる期待は限りない。」

「クラブ・デ・トラント(Club des Trente)と呼ばれるグループの始まりでした。
もう30年以上前の話でいまさら何だ、と思う方も多いかと思いますが(えぃ、年寄りの昔話しじゃ)、ハルコの敬愛するフランスの歴史家アラン・コルバン先生(Alain Corbin)のお言葉にこんなのがあります。
「歴史を知らない社会は知的に貧しい社会になりかねないことだ。少しも新しくないのに、たまたま目の前にある現象を新しいことだと勘違いする無邪気な心理が生まれてしまう。過去の体験や知識を正しく受け継いでいれば避けられるのに、それを知らないために社会全体が幼稚な錯覚にとらわれることになりかねない」(朝日新聞インタヴューより)

クラブ・デ・トラントは、海外(主にフランス)で修行した料理人たちが1970年代後半から帰国し始まりました。皆さん30代でしたが、30年の月日が経つと現役引退したり、会長の高橋徳男さん(2009年)も亡くなってしまい、ハルコは段々その当時の証言者がいなくなる危機感を抱いています。

クラブ・デ・トラントの存在は日本にフランス料理の定着を果たすとともに、全体の食文化を引き上げ、スターシェフを排出し、後に続く若手シェフたちの道標にもなったのです。ハルコはその黎明期からの歴史の検証を、“客”の立場から試みたいと思います。

季刊『饗宴』第4号(婦人生活社)1980年 9月30日発行
写真右から(カッコは当時のレストラン名)
吉野好宏(ジャンドマルス) 石神和人(ベル・フランス) 酒井一之(ヴァンセーヌ)
井上旭(ドゥ・ロアンヌ)  秋山茂夫(サンマルタン)  高橋徳男(ラ.マレ)
鎌田昭男(オー・シュアヴァル・ブラン) 青木亨(イゾルデ) 坂井宏行(ラ・ロッシェル)
熊谷喜八(ラ・マレー・ド・チャヤ) 城悦男(レカン) 寺島雄三(楠亭)
※写真にはいないメンバー/石鍋裕(ビストロ・ロテュース) 扇谷正太郎(エヴァンタイユ) 佐藤健二郎(シャトー・リヨン) 勝又登(ビストロ・ラ.シテ/オー・シザブル)

●神楽坂「蓮」
久しぶりの「蓮」です。何だか夏は(あぁ、もう秋か)足が遠のいてました。
ご存知の方も多いと思いますが、「蓮」神楽坂「石かわ」「虎白」の兄弟店(??)です。石山料理長には趣旨雑多なことでお世話になっております。毎度すみません。
鱧切りのリズミカルな音で写真を撮らせていただきました。金魚の水槽がまだ、夏の名残を感じますね。
〆はお馴染みのカレーです(たまにカレーうどんにしています)。あぁ、満腹、満腹!


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