2011年10月3日月曜日

ホテルから街場へ…クラブ・デ・トラントの時代 2

「フランス料理の探求」(クラブ・デ・トラント著/柴田書店)口絵より。

クラブ・デ・トラントが結成されたのは1980年のことです。
少しその前の東京を中心としたレストラン事情を見てみましょう。あまり遡るのも考えものですね。洋食屋さんは明治期からありますが、戦後からにしましょうか。

ホテルや会館系統には、進駐軍によって接収された(すみません古い話で)丸の内ホテルや帝国ホテルなどがあり、接収解除になるのは1952年以降です。
街場のレストランは、イタリアンの方が早く広まってますね(イタリアレストラン興亡物語もその内書きます)。本牧に「イタリアンガーデン」(1950年)、フレンチでは同年銀座「エスコフィエ」が開店しています。
やはり進駐軍相手のレストランとしてですね。1953年は「グリル満天星」、1955年イタリアン「シシリアン」フレンチでは日比谷に「南部亭」翌年は「ニコラス」が出来ています。
1957年には帝国ホテルでバイキングが始まり、1958年には六本木の「アントニオ」が開店。アントニオは戦時中イタリアから日本へ向った軍艦が、イタリアが連合軍に降伏したので、神戸で抑留されたアントニオさんが戦後マッカーサー元帥の料理人になり、その後レストランを作ったのです。
ハルコが昔勤めていた事務所の並び(西麻布から六本木)にあり、いつかアントニオで食事をする“身分”になりたいと思ってましたね。確かその並びには「西洋膳所ジョン・カナヤ」(1971年)もありました(ハルコ青春時代を思い出す)。
そして、60年安保の時に開店したのがその後の六本木カルチャーの発信地になった「キャンティ」がオープンします。

1970年代はホテルでは、帝国ホテルが「フォンテンブロー」、ホテルオークラが「ラ・ベル・エポック」を開業し、いよいよ日本のフランス料理の幅も奥行きも出始めました。
そして、1960年代から海外に修行に行っていた料理人が帰国して、各地のホテルなどで活躍をはじめたのです。
銀座「レカン」などを経て恵比寿に「ドゥ・ロアンヌ」を開業した井上旭、六本木「オー・シュヴァル・ブラン」の料理長に鎌田昭男、六本木「ロテュウス」石鍋裕「ラ・マーレ・ド・チャヤ」熊谷喜八「ビストロ・ラ・シテ」勝又登「アピシウス」高橋徳男銀座「レカン」城悦男「ヴァンセーヌ」酒井一之とキラ星のごとくスターシェフが出てきたのです。
この時期は石油ショックで日本は不況に見舞われていました。
ホテルから街場へのレストランが増えてきた理由の一つは今思えば不況で、店舗が比較的に安く出せる背景があったのでは、とハルコは考えます。

それは10数年経てバブルが崩壊した後に、ワインバーとイタリアンレストランが林立した状況と酷似しているのです。
話は戻して、いよいよ「クラブ・デ・トラント」の結成で、東京のフレンチは開花するのです。

●神楽坂 別亭 鳥茶屋
神楽坂の鳥茶屋です。今日はここで会食会でした。久しぶりでございます。
何で鳥茶屋のうどんは太くて長いのでしょうかね。個人的にはもっと細めが好きなんですが……。
鳥茶屋へ行く前に、ウェイティングでビールとフィッシュ&チップスで軽く腹ごしらえ(?)。ハルコまで鍋で煮て皆様から大顰蹙!! その後カラオケで深夜まで。当然朝は声が枯れて、週末ウォーキングも二日酔いでダメダメ! 反省しきりのハルコでした。

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