2011年9月23日金曜日

みをつくし料理帖から…江戸のグルメ文化 その4

『みをつくし料理帖』は料理人です。えっ、なぜ当たり前のことを書くのかって?
普段普通に使っている“料理”が問題なのです。
料理を分解すると、「料」「米」「斗」を合わせた「計る」という意味になります。
また、「理」「おさめる」という意味で、「物事を適切に処置する」「きりもりをする」といった意味の漢語です。転じて「手をかけて食物をつくる=料理」になりました(たぶん)。
普通に夕食を作ろうとする時に「ご飯を作る」「晩ご飯の用意をする」とは言いますが「料理を作る、用意する」は何か微妙なニュアンスがありますね。
字源の「料」の「米を斗=計る」が米を主食とした(しようとした)中国や日本のアジア食文化の現れのような気がします。

江戸の初期には、一般的な「料理屋」は存在していませんでした。明暦の大火(1657年)以降、浅草に「奈良茶飯屋(やはり飯屋です)」が出来たのが最初と言われており、その後次第に芝神明や両国などの盛り場に「腰かけの小料理屋」が出来たのです。
江戸の料理は「本膳料理」「腰かけ料理」「会席料理」の3つに分類出来ます。
「本膳料理」は大名屋敷を中心に武家の間で行われ、大名の御留守役が緒藩の交渉の場として(まぁ、接待ですね)高級料亭ができ、「会席料理」となったのです。
会席料理自体のルーツは、室町中期に始まった京都の「有職(ゆうそく)料理」「茶懐石」に、江戸で発達した「本膳料理」が融合して誕生したのです(これが現在の日本料理の大もと)。
そして、料理人澪がもっと格式の高い料理屋への誘いを受けますが、庶民に味を楽しんでもらうために「つる屋」に残る決心をしたのです(6巻までですよ)。

さてさて、ここから本題で、「料理人」「庖丁人」の話です。
澪は「料理人」ですが、「庖丁人」って……?
『生間流式法秘書』の包丁由来之項から引用(大雑把に意訳)しますと、「包丁人を料理人という人がいて、昔の人も庖丁人と料理人の階級があることを知らない」つまり、料理人は庖丁人の下なのです。
「元々、包丁人は包丁式や礼法等(面倒なので省略)の“板元”で料理人を教育したもんだ!」庖丁人は偉いんだ!「料理人は“板元”に学び庖丁人のまねをすること」そして「料理人は庖丁人との階級を乱してはならぬ」てなことが書かれております。
まぁ、今も昔も規律のある場所での修行でなくては、料理の世界は成り立ちませんね。
かく言うお手伝いハルコも涙の修行歴10余年ですが、未だに「精進足らず」でございます。
ハルコも澪を見習い、自分の「器」を大きくしてお手伝い界の星となるのだ!

●飛鳥山公園
この所お気に入りの週末散歩コースです。八代将軍吉宗が亨保年間に桜の苗木を1000本植えて、花の名所になり「江戸名所」「殊にきさらぎやよいの頃は桜花爛漫として尋常の観にあらず」と紹介され、明治6年に日本最初の公園の一つとして開園されました。ハルコの大好きな場所でもあります。
落語の「王子のきつね」の王子権現も近所にあるし、池波正太郎の『鬼平犯科帳』にも巣鴨村(長谷川平蔵の生母の住んでいた場所)から音無川(石神井川の上流)の渓谷を通っていく場面があります。
桜の季節になると飛鳥山公園から川伝いに整理された遊歩道をお弁当とお酒を持って花見に行きます。

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