2011年9月22日木曜日

みをつくし料理帖から…江戸のグルメ文化 その3

元飯田町「つる家」の側に、澪がお参りに行く“化け物稲荷”があります。
油揚げを供えて、慕っている小松原の息災を祈る…というお話は、どうぞ小説でご堪能ください。

今回は“稲荷”と言ったら“きつね”そして、油揚げ!! 稲荷鮨です。
非常に個人的ですが(今までも個人的なことしか書いてないだろうって)ハルコは油揚げが大好きでございます。
その油揚げで一番好きな食べ方は、“きつねそば”“おいなりさん”を同時に食べながら、最後はおいなりさんを蕎麦つゆに沈めて“混ぜて”いただく(前に混ぜるを書きましたが)という、非常にハイリスク(?)な食事法なのです。食べているハルコもこれだけは他の人には勧められませんね。禁断の食べ方です。

油揚げは豆腐が無いと存在しない食べ物です。いや、豆腐に感謝です。
油揚げ自体は、室町時代初期に寺院で作られた精進料理を端にしてます。その油揚げがどこできつねと結びついたのでしょうか。
ハルコの食関連の資料を何冊も調べてみました…ありました。
鈴木晋一著の『たべもの史話』(平凡社)にある、狂言『釣狐』の中のお話です。身内が猟師に罠で捕まってしまい、自分自身も危険にさらされた古狐がいました。古狐は猟師の叔父の老僧白蔵王に化けて、猟師に狐の恐ろしい執念を説き、罠を捨てさせることに成功した帰り道、捨てさせたはずの罠に旨そうな餌が……。
これが何と若鼠の油揚げ!! これは、日本各地の伝承にもあるそうで、さすがに鼠を油で揚げたものはお供えに向いておらず、代用品として油揚げになったらしいのです。

日本で一番多い神社NO.1は“稲荷”ですが、明治四年に神仏混淆の儀は廃止になり、稲荷神社はその地位を明らかにする必要があったのです。伏見稲荷をはじめ、大きい稲荷は稲荷神社として残り、真言宗系(お大師さまと稲荷は深い関係)の稲荷は稲荷本地仏として十一面観音で寺院へ祀られ、そして引き取り手の無い稲荷は、私有祠として全国に残りました。
澪も祈っていた稲荷は明治期に大転換しましたが、今でも日本人に深く愛されていますね。

さて、肝心の稲荷鮨ですが、天保年間(1830-43年)に名古屋で考察され、江戸で治郎右衛門が売り出し1日で1万個も売ったという記録があります(すごい!)。
稲荷鮨は天保の飢饉の頃から始まり、現在まで続いていますが、その後「狸鮨」というものも売り出されたという記録があるらしいのですが、それはどういう鮨なのかという記述はないそうです。
麺に“きつね”“たぬき”。鮨にも有れば…とハルコは思うのですが、考案しようかしらん。

●タンドリーキッチンマラティ
台風15号は大変でした。本当は東京ミッドタウン「ビルボード」でオクサマのお供で「COBA」さんのライブに行く予定でしたが、地下鉄は動かないわタクシーは捕まらないわで、大騒ぎでございました。
で、何とか自宅へ辿り着くことができました。
マンションの2階にあるインド風レストランです(最初はネパール料理でした)。
自宅周辺ではあまり食べに行きませんが、それなりに満足いたしました。

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