2011年9月21日水曜日

みをつくし料理帖から…江戸のグルメ文化 その2

「みをつくし料理帳」の第6冊目、『心星ひとつ』の第3話「時ならぬ花ーお手軽割籠」では、主人公澪の働いている「つる家」の町(元飯田町)でぼや騒ぎがあり、町年寄りから火の取り扱いを朝五つから四つまでに限るとお達しが出ました。
飲食業で午前8時から10時までで何が出来るか。
昼も夜も温かな料理を供せなくなるのです。寒い季節が始まり“熱さもご馳走”が不可能になってしまいます。まぁ、澪の知恵でお弁当を売り出して解決するのですが、それは小説をお読みください。
話はそれますが、「弁当を食べる」という方が結構多いですが、間違いでございます。本来は「弁当を使う」が正しい言葉です。

それはさておき、江戸は圧倒的に男社会です。とは言っても、これは男女の人口比の話で、男3に対して女1の割合です。お手伝いハルコでさえ、毎日ご飯作りは面倒です。そうなるとお惣菜を買ってきて簡単に……。
そうなんです。江戸は現在でいうところのファーストフードが盛んだったのです。
外食のレストランに該当する料理屋さんも、ヨーロッパより100年も早く(明暦3年=1657年)発達していたのですね。
武家階級であろうとも職人であろうとも、圧倒的に女性が少ないということは、世帯を持てない男性がうじゃうじゃいて、食べる所や食べ物屋さんを探していたのですね。
最初は寺社仏閣前で茶飯なんかを食べさせていたのが、段々高級化して料亭に発達するのです。

では庶民はというと、屋台振り売り(ファーストフードの原型)で買って食べていたのです。屋台は今でもラーメン屋さんやおでん屋さんなどがおなじみですね。
振り売りとは、簡単にいうと食べ物を担いで売り歩く行商人です。納豆、豆腐、しじみなどの他に寿司なんかも売っていました。その中でも「煮売り屋」と呼ばれるお惣菜屋さんが大繁盛していました。
米は自分の家で炊き、煮売り屋からお惣菜を買ってくる。現在の中食(なかしょく)の原型はすでに江戸時代に出来ていたのです。
煮売り屋ではどんなものが売られていたのでしょうか?
まず「菜屋(ざいや)」では焼豆腐、スルメ、コンニャク、アワビ、レンコンなどを醤油で煮染め、大皿に盛って並べて売っていました。
さらに、「刺身屋」というのがあって、当時は下魚として高級店では出さないマグロの大トロや鰹、鰯を売っておりました。
時代が下がると煮売り屋もどんどん増えて、内容もバラエティに富み、旨いものが安く売られるようになりました。何だか今と変りのない時代ですね。
その辺が書かれている本は沢山出ています。今日は手元の2冊をご紹介します。


『巨大都市江戸が和食をつくった』渡辺善次郎(農文協)と
『再現江戸総菜事典』川口はるみ(東京堂出版)

●池の端 薮蕎麦
場所は湯島ですが、ほぼ上野広小路の方が場所としては感じかなぁ。上野で展覧会を観た後は“薮蕎麦”“伊豆栄”によく行きますね。
鴨焼を食べて、ハルコもオクサマも一番好きなのは“天ぬき”です。
天ぷら蕎麦から蕎麦を抜いたもので、これを“あて”にぬる燗で一杯。別名天ぷらの吸い物で”天吸い”とも言います。ズル~~。グビ。

オクサマ作、朝のオープンサンド(オクサマ得意技です)に、津田沼の叔父さんからいただいた船橋梨と、家庭画報のFさんより甲州葡萄の到来もの。ありがとうございます。

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