2011年12月28日水曜日

日々是好日


早いもので今年最後のブログです。
8月8日より始めたブログも今回で122回になりました。
飽きっぽい性格ですが、日曜や旅行を除いてほぼ毎日書いてきました。
読んでメールを下さった方や、読んでるよ、と声をかけてくださる方もいらして、少数ではありますが、毎日書く励みになりました。
ありがとうございます。

「日々是ハルコ哉。」の大本は禅の一宗、雲門宗の宗祖雲門文えん(うんもんぶんえん、“えん”は難し過ぎて字が出ません)が弟子に向かって、自らの境遇と生き方を、自問自答の体裁で示した一句です。
本来の読みは「ひびこれ」ではなく「にちにちこれこうにち」と読み下します。
「来る日も来る日も毎日が最良の日だ」という意味ですが、これは毎日が良いことづくめ、楽しいことばかりではないという意味があります。
「悲喜、苦楽が交錯し、順境もあれば逆境もあるのが人生の実相である」
そんな心理ですね。

今年は日本全体が大変な年で、まだ解決の見通しが立たない状況が続いてます。
毎日気力が無くなりかける日々でしたが、ブログという形で書いていく行為自体が心の無常観を幾分和らいでくれたような気がします。
まだ、郷里では仮設住宅に住んでいる親族も多々おります。

「雲深不知處(くもふかくして ところをしらず)という唐詩があります。
前文は、字義通りに読むと「只在此山中 雲深不知處(山中に分け入ったところ雲が深く立ちこめて、かいもく所在がわからない)となります。
しかし、いつかは垂れ込めた雲が晴れて光明が輝く、と深読みします。
そんな、新年を迎えたいですね。

良いお年をお迎えください。

後藤晴彦 こと 「お手伝いハルコ」

●年末年始のブログのお休み
12月29日から明けて1月4日まではブログはお休みいたします。
※元旦は賀状ブログ

facebookではほぼ毎日発信してます。
よろしければこちらからアクセスしてください。
http://www.facebook.com/otetudaiharuko

2011年12月27日火曜日

ペコちゃん焼き


週の2日ほどは神楽坂にご飯を食べに行っております。
地下鉄有楽町線の神楽坂口を出てすぐ側に「不二家飯田橋神楽坂店」があります。昔から有名ですが、ここにしかない「ペコちゃん焼き」があるのです。


初めてペコちゃん焼きを食べたのは、思い出せないくらい前です。
神楽坂に事務所がある編集者“しかちゃん”がお土産によく買ってきてくれました。また、自分でも神楽坂に行った時に買ってお土産にしております。
全国でここでしか買えないペコちゃん焼きは、ある意味で商売の基本ですね。
今はどこでも大概のものが入手出来るの、にここでしか手に入らない。大量生産大量販売には向いてませんが、息長くブランドの価値を上げていく見本ですね。


●アモーレ
ずいぶん前ですが、まだ六本木ヒルズもミッドタウンも新国立美術館もない時代の星条旗通りに、イタリア料理店「ラゴーラ」がありました。シェフはお馴染み澤口知之ラゴーラには最初の頃通っていたのですが、いつの間にか縁遠くなりました。

ラゴーラが随分前に「アモーレ」に変わり、フィレンツェの友人I夫妻のお誘いで、そこに出かけました。
久しぶりに“骨太の料理(タラ尽くし)”を堪能しました。旧知の給仕人の久保木博さんは、いつの間にかアモーレにいたのですね。

2011年12月26日月曜日

柳 宗理


今年の自分の中での“マイ・ブーム”をひとつ上げれば、ウォーキングでしょうか。
3.11に自宅まで歩いて帰宅した時に足腰を鍛える必要を感じて、積極的に歩こうと考えてたのです。
自宅の廻りを中心に歩いていますが、色々な場所でお気に入りの“散歩コース”があります。
その中のひとつ、京王井の頭線「駒場東大前駅」周辺がお薦めです。

何故かというと、ここには「日本民藝館」があるのです。日本民藝館は、日本の民藝運動の創始者柳宗悦が造った博物館です。散歩がてらというより、ここに展示してある民藝作品を見に来るのですが、何十回通ったでしょうか。
まだ10代の頃に、バーナード・リーチ濱田庄司の作品に出会い、感銘を受けました。日本・朝鮮半島・台湾・欧米と幅広く、それまで大衆の物と価値の無いものとして扱われていたものを、民藝という名称で評価した物を展示しています。
ハルコ的には朝鮮半島の磁器や民画に出会った場所であり、未だに興味が尽きない場所です。

その日本藝芸館の二代目館長が柳宗理です。日本の工業デザイナーの草分けで、あらゆる分野のデザインを開拓した方ですね。
その柳宗理がクリスマスの日に天に召されした。享年92歳でした。
ハルコは工業デザインは門外漢ですが、縁が有って幾つかのキッチン用品の開発を手がけております。
考え方の原点に柳宗理のモノ造りの視点に影響を受けました。
バウハウスやウィーン工房のモダンな流ればかりではなく、モダンデザインでは割り切れない不合理性を包合した東洋や日本のデザインに引かれるのです。
やはり、それは民藝という人々の生活に根ざした分母があるからだと考えています。

現在ハルコはボウルとザルの製品化に取組んでおりますが、柳宗理のボウルが大きな目標でした。
モダンデザインからポストモダン、ナチュラルなデザイン……と変わりますが、キッチン用品はやはり、それで料理する人のためにあると再度自覚して挑戦して行きます。

●年末散歩…根津周辺
いよいよ年も押し迫りました。寒くても天気の良い日は散歩です。
今日は根津神社へ。根津神社東京十社のひとつで、大元は日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝わる古社です。境内は春になるとツツジが有名ですが、今回は年末の散策に。
社殿は、1706年(宝永2年)に五代将軍徳川綱吉が六代将軍になる家宣のために普請したものです。
この周辺には、森鴎外や夏目漱石が居住しておりました(塀の上の猫は夏目漱石記念館の“我輩は猫である”の猫)。
散歩の〆は「根津よし房 凛」でかき揚げ蕎麦でした。

2011年12月24日土曜日

調味料は進化しているのか?…6 UMAMI


調味料に関して5回に渡って過去からの考察をしてきました(ハルコブログとしては非常に堅い内容ですね)。
食に国境が有るか無いか、という視点では無いと思うのですが、リアルな食材になるとそれぞれの事情があり、その国に行かないと食べることが難しいものが多々あります。
しかしこの10数年で、以前では考えられない食材が私達の食卓に並ぶようになりました。

日本列島は島国ゆえに、海外から流入して来た文化がそのままの形で残る特有の形態を持ってます。それは「文化のパーマネント化」という概念で表されています。
食に関しても、日本に入ってきた当時のまま本国では無くなってしまっている食文化が融合して、日本の食文化の一部を形成したり、逆に「天ぷら」などのように日本料理の代表のようになっているものもありますね。

この1年、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)をどうするかで、賛否両論あります。
世界三大料理(フレンチ、中華、トルコ。トルコの部分に自国を入れる考え方もあり)は、国境を越えて浸透してきました。
日本においては、フレンチ(変形で洋食)中華に、イタリアン、韓国……。と本国を凌駕する数々の店と家庭で食卓に並ぶ世界の料理を享受している民族は他に無いですね。
日本食も、海外では高級料理(オートキュィジーヌ)として認知されていますね。日本料理、鮨、天ぷら等海外で成功している事例も多いです。
以前モスクワに旅行に行った際に、方々で“すし”“うどん”の看板が目に付きました。
ガイドさんに話を聞くと「ロシア料理を出すのだけど、日本食も食べられると客が入るの」とのことでしたが、ピロシキにうどんとか、ボルシチにすしの組合せって? と、思いつつ日本の食卓もかなり国際的でしたね。

日本料理(和食)を突き詰めていくと「うまみ」に到達します。
「甘・酸・塩・苦」の他に第5味覚の「うまみ」があります。昆布のグルタミン酸、鰹節のイノシン酸、椎茸のグアルン酸などの味ですね。
1907年(明治40年)に池田菊苗博士が昆布からグルタミン酸を抽出して、味の素の二代目鈴木三郎助と共同で、この工業化に成功して第5の味覚「うまみ」が登場してから100年以上になります。
この「うまみ」は化学工業製品として世界に進出したのですが、時代はケミカルな「うまみ」に対して距離を置くようになりました。味の素でも「だしcafe」でだしの取り方を教えているくらいです。
ただ、多くのケミカルな成分を混合した味と、極力自然に近い味を再現する方向と、この動きは両極に分かれていくしかないですね。

現在日本では、自然に近い食生活をしたいと考えている人々が増えているのも事実ですが、全く関心の無い層が最大勢力です。
「うまみ」が国境を越えて「UMAMI」として認知されていますが、それぞれの国への自然なUMAMIの浸透はその国の水事情と食文化を精査しないといけませんね。
ハルコには何故か常に「だし」「UMAMI」に関係する仕事があります。
調味料の形態として「UMAMI」をいかに扱うか、調味料としての進化を来年はさらに考察してみます。

●調味料の進化系Umaminature
大阪松前屋さんの食べる調味料「ウマミナチュレ」です。
umamiを進化させた「昆布の水塩」を産んだ大阪の昆布の老舗店です。来年100周年を迎えますが、日本のumami文化を積極的に海外に発信しております。
写真は台湾版「ウマミナチュレ」ポスターです。

2011年12月23日金曜日

調味料は進化しているのか?…5 調味料と内食(日本型食生活)の関係


日本型食生活(ハルコの朝食・12年前の『料理王国』より)

リーマンショックに大震災と、景気が後退していく時代がつづいています。
また、1990年前半から始まった「バブル崩壊」後から外食産業が後退して、内食(外食に対して自宅で食事を取る意味ですが、ハルコはあまり好きな言葉ではあるません。中食は総菜等を自宅に持ち帰って食べるという意味)が増加しました。

さて、話はバブル崩壊より10年ほど前の1983年(昭和58年)にある諮問が提言されました。その内容は、「私たちの望ましい食生活・日本型食生活のあり方を求めて」と識者が厚生省(当時)に出したもので、8か条からなります。
その中の(3)には「お米の基本食料としての役割とその意味を認識すること」という項目がありました。カロリー重視の欧米型食生活からの大転換がこの歳を境に変化していったのです。
それは、その後の時代を経て「食育」まで繋がっていく岐路となりました。単なる食生活の見直しばかりでなく、遠因は年々増加する医療費の抑制のため食習慣から変えていく、という意味があったのです。
それと同時に、消費者の米離れを食い止めるために「米食」の勧めが推奨されたのです。

話はバブル崩壊後の家庭の動向の戻ります。内食が増えて味噌などの基本調味料の売り上げが増えてきたのですが、「日本型食生活」にはほど遠い食べ方が浸透してきました。
それは、「日本型食生活」の一汁三菜などではなく、食べたいものを食べる「居酒屋スタイル」だったのです。
米飯だと、使用する調味料はご飯に合うものが中心ですが、居酒屋スタイルになるとソース、唐辛子、マヨネーズ、ラー油、マスタード等色々な調味料が登場してきて、場合によってはメーカーが想定していないような調味料同志の組み合わせでカスタマイズされてきたのだと考えています。

そんな中で「調味料=おかず」という発想で「食べる調味料」が全国で注目され、地方独特の食材がクローズアップされたのでは、とハルコは思うのです。
その流れの中でもやはり、食の安全性や伝統的な食を守る、という機運が高まりました(イタリアのスローフード運動)。日本でも農作物を中心にした地域の絶滅寸前だった伝統食の見直し運動が起きました。ある意味で、グローバルに対抗する食のナショナリズムと考えても間違いではないでしょう。
いよいよ、明日は今回のまとめの「うまみ文化」へ発信です。

●ダノイ日本橋
12月7日にオープンした「ダノイ日本橋」へ訪れました。当日はオクサマのお供でございます。オクサマが仕事関係でお世話になった方々との会食会でした。
やはり懐かしいメニューから選んでしまいました。“スパゲッティ・トリッパ・アラビアータ“。これはダノイで200皿以上は食べたでしょうか。そしてダノイ名物“キャベツとアンチョビのスパゲッティ”“コートレット・ミラネーゼ”
美味しい一夜でした。


左/日本橋室町周辺の鎮守神、ダノイのシンボルクマ!?
中央/スパゲッティ・トリッパ・アラビアータ
右/キャベツとアンチョビのスパゲッティ

2011年12月22日木曜日

調味料は進化しているのか?…4 エスニックブームの影響


言葉というものは間違った使われ方をしても、それが一般的になってしまうと、元々の意味とは違った使い方が広まりますね。

そういう意味で「エスニック(ethnic)は、日本では違う使い方をされている典型ですね。
本来は「民族的な」という意味なので、「エスニック料理=民族的な料理」で、フランス、イタリア料理も日本料理もエスニックなのです。
それが、いつのまにか東南アジアからインド、中近東の料理を指すようになってしまいました。

他民族からなるアメリカ合衆国で、60年代頃からそれぞれの民族が特定の街で生活して、そこだけで食べられる「エスニック料理」が広まり、70年代になるとニューヨークで「エスニックブーム」が産まれたわけです。
日本では80年代後半からタイ、カンボジア、インド、ベトナム等「エスニック料理店」が続々登場してマスコミに取り上げられ、一大ブームになりました。
流行物に弱いハルコさんもそれ行けと、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、インドネシア、ベトナム……と、エスニック料理探訪に東南アジアに出向いておりました。
タイに行った際は、タイ語が全然判らないので手製のタイ語の料理名を書いたカードを作成して、現地で見せながら食事をしたりしておりました。
和洋中という日本の料理ジャンルにエスニックが加わり、ある意味で味覚の底辺を押し広げる効果はあったと思います。


左/1983年2月シンガポールのインド人街(市場)でハルコが撮影したものですが、翌年に行ったら無くなってました。急速にアジアが変わりはじめた時代です。
右/市場で売られているドリアン。

この辺から、日本人の味覚に新たに登場したのが「辛み」です。四川料理など、先行していた辛い料理との違いは、「料理を食べたら辛かった」から「辛い料理を食べる」と、能動的になったことでしょうか。
東南アジアへ出かけて、本場の辛さを味わいに本でも同様の味を求める。ただ、この時代は韓国料理は焼肉のイメージで、現在のようなコーリャンブームは「冬ソナ」から「チャングム」の登場を待つまで出番はありません(これはそのうち書きます)。

ニョクマムやナンプラーなどの発酵性の魚醤の味に慣れ、辛い料理に親しむのに平行して、スパイスを使うことが料理研究家の間でも流行になってきたのでした。
それには、塩分過多の日本人の食生活から塩分を減らし、その代わりに「辛い」「酸っぱい」塩の代替として使うことにより、ヘルシーな料理を目指す動きと連動していったのです。
これは、料理の世界でのグローバル化の走りです。料理自体がフュージョン化されボーダレスな動きになって来て、あげくは「無国籍料理」というジャンルまで出現するのです。
この後は、1985年「激辛」ブームへと続き、その流れから「食べるラー油」が出てきたとハルコは想定しるのです(写真はハルコのお友だちよしこちゃんの「よっちゃんラー油」です)。

●再び夏目亭へ
小旦那さまと夏目亭へ出かけました。前回は食べられなかった牡蠣を堪能。イワシのリエット(フタ替わりにオリーブオイル)と、また面白いものも。
熟達の料理人ムッシュ夏目の技はクラシックにしてモダン! 若い料理人は勉強になるかもしれませんね。
「温故知新」という言葉を噛み締めながらいただきました。

2011年12月21日水曜日

調味料は進化しているのか?…3 ふりかけ文化


「ふりかけ」は調味料なのか総菜なのか微妙な問題ですが、最近は「食べる調味料(調味料+総菜)といったジャンルが確立していますね。
「ふりかけ」は大好きなのですが、そういえばふりかけとは何だろう? と、あらためて調べてみてビックリ!
「全国ふりかけ協会」という組織があるのですね。日本のふりかけ市場規模は約600億円だったそうです。ただ、このデータは10年前の話で現在は総合的な統計があるか不明です。
「全国ふりかけ協会」に参加しているメーカーは15社で、丸美屋、永谷園、三島食品などが加盟しています。
同協会の公式見解では、「ふりかけ」の元祖は大正初期に熊本の薬剤師の吉丸末吉という人物が、日本人にカルシウムが不足しているのを補うために、魚の骨を粉末にして「御飯の友」という名称で売り出したのが最初とされています。
しかし、「御飯の友」が出た時代には「ふりかけ」という言葉は無かったようで、「ふりかける」という動詞が「ふりかけ」という固有名詞に転化したのは1959年(昭和34年)と、そんなに昔ではないよいうですね。

ハルコが個人的に「ふりかけ」を認識したのは「丸美屋」「のりたま」と「すきやき」ですが、のりたまは1960年すきやきは1963年で、子どもの心をキャッチしたのでした。
毎日ごはんに「今日は“のりたま”、明日は“すきやき”、明後日は“のりたますきやき”」などといって頻繁に食卓にありました。今でもスーパやコンビニで見ると、ついつい懐かしさもあり買ってしまいます。

イタリア在住の友人夫婦に「イタリアにふりかけはあるの?」と尋ねてみると、カラスミを粉末状態にしてパスタに絡めるものはあるが、オリーブオイルで和えるので「ふりかけ」とは少し違うのでは、とのことでした。
近隣を調べて見ると、韓国には海苔等をベースにした日本のふりかけと類似した食品があります。これも、最近の流れのようです。
では中国はというと、中国人的には「ふりかけ」は貧しい食べ物で、総菜の無い食卓で食べられる「拌飯素」と言っているようでうすね。

ほぼ半世紀の「ふりかけ」の歴史ですが、これが調味料化していく過程を考察すると、今から約10年少し前、20世紀から21世紀になった2001年に、相次いで手作りふりかけを発想させるレシピ本が刊行されていました。
その中で手持ちの本を捜してみました。『これは便利調味料』(松本忠子/文化出版局)、『粉だしで極上シンプルだし宣言』(山本麗子/講談社)の2冊が目に入りました。お二人とも著名な料理研究家で、年齢も近いですね。
松本忠子先生は旨みを液体化して料理に使い、山本麗子さんは魚介を粉砕してそのまま、あるいは塩と混ぜての使用法を紹介しています。
まさに大正初期に吉丸末吉が考えた、旨みの出る魚介を粉砕して作った「御飯の友」の復活です。
これから、数年して「食べるラー油」などの「食べる調味料」への岐路になったと思いますが、付帯する仮説「エスニックブーム」の影響はまた明日に。

●百貨店の中のミシュラン
2012年最新の『ミシュランガイド(東京、横浜、湘南編)で、ひとつ星になったフランス料理店に「レ ロジェ エギュスキロール(Les rosiers Eguzkilore)があります。
バスク郷土料理からインスピレーションを得た「チョリソを纏った本日の魚と小イカとココ豆のクレーム」などをいただきました。
凄いのは、これが銀座三越店の中にあるということですね。
百貨店で初めての星付レストランですが、帝国ホテルやオークラで食事している雰囲気で、百貨店のホスピタリティ溢れたホールのサービス。銀座で買い物の後に、ゆっくりと落ち着いた場所で良いですよ。
今は無理ですが、暖かくなったらテラスでも食事が出来ます。

銀座三越東側12F
TEL:03-3561-7020


2011年12月20日火曜日

調味料は進化しているのか?…2 塩の専売制の廃止


料理の調味料で何が一番か、と考えると「塩」以外はありません。調味料として塩以上に重要なものはないですね。

また、このが一番難しい調味料でもあります。料理の腕は塩で決まると考えても良いですね。しかし塩分の取り過ぎは危険視され、何だか糖分や脂肪分と同じ様に悪者扱いされています。
歴史では(現在でも)、食料が無くなり飢饉が起きますが、「塩飢饉」という言葉もあるのをご存知しょうか? 塩が不足して人間や家畜までが弱ってしまうことで、アメリカの南北戦争は南部の「塩飢饉」で負けたと言う説もあるくらいです。

食品がほぼ何でも揃う現在に対して、非常に厳しい規制のある時代がありました。現在でも防疫法の観点から輸入や海外への持ち出し制限のある物も多々あります。
明治末期に、上方落語の桂文三「改良ぜんざい」という落語を発表しました。それを東西の噺家さんが、変化しながら現在でも演じられるようになり「ぜんざい公社」という傑作になったのです。
何故こんな落語の話をするのかというと、1905年(明治38年)大蔵省専売局が設置されて、塩が国直轄の「専売制」になったのです。
この頃、日露戦争の財源確保のために、塩に「非常特別法」という税金をかける案が出たのですが、これに反対する勢力が塩を専売制度にしたのです。
塩というのは非常に政治的な生産物だったのです。通常、塩というと家庭で料理する塩を思い浮かべますが、日本の塩消費の80%は工業用の原料なのです。
落語「ぜんざい公社」のあらすじは、一杯のぜんざいを食べるためにお役所の中をあっちこっち、仕舞いには健康診断書が必要となり……(塩が大蔵省専売局から日本専売公社に移行したのは1949年)。

そんな公社が付くお役所ですが、大規模な製造と専売によって大きな利益を産んでいくわけです。何回か専売法を変えるという動きがありましたが、やっと1997年に専売制が廃止されて、日本専売公社から「日本たばこ産業株式会社(JT)」に移行し、専売公社の事務は「財団法人塩事業センター」になったのです。
完全に塩の製造販売が自由化されたのは2002年からで、わずかここ10年のことですね。そして日本全国で「自然塩ブーム」が起きるのです。
それまでの専売法の元での「塩化ナトリウム純度の高い」精製塩から、それぞれの製法で作られた特色のある塩が家庭で使用されはじめました。
その頃進んでいるレストランは、各自入手した塩を料理の味の決め手としてアピールしていました。
 料理のレシピでも「日本の塩は不味いから」と半分諦め気味の料理研究家の皆さんも、好みの塩を使える時代が到来したと喜んだものです。
それまでの専売公社の精製塩から、味に深みのある塩を調味料に使うという試みをする方々も多くなりました。

1997年から2002年、今から9~14年前に現在に繋がる「調味料の進化」が始まったという仮説がスタートします。

●日々是甚六の傑作「オムライス」
確かに美味しいオムライスを出す専門店は多々あります。が、甚六の「オムライス」はハルコ今年食べた料理のトップ5に入る味でした。
ハルコは常々、甚六のレシピを電子書籍化したいと考えていました。甚六ファンの力を総結集(?なんのことですか)して、来年はやりましょう!

2011年12月19日月曜日

調味料は進化しているのか?……1


この数年「食べるラー油」から端を発した、新しいタイプと考えられている調味料ブームがありました。
ハルコなりに“調味料は進化しているのか?“と題して考えてみます。

手作りラー油に関しては、ハルコは雑誌の連載で家庭で簡単に作る方法を企画して、10年以上前に取材をしていたのです。その時は、調味料を自分でカスタマイズするという発想はまだ無かったようですね。
ブログにするにはテーマが大きいので、いくつか「仮説」を想定して深く精査するのは今後の課題にしたいと考えております。
当然、ハルコが考えるのですから、大勘違いの可能せもあるのはご勘弁のほどを。

●調味料の進化の要因の仮説
(1)塩の専売方の撤廃
かつて、国策によって専売法で自由に製造したり売買することは禁止されていましたが、塩化ナトリウムのケミカルな味が日本の料理を不味くしていました。と、いう論法がありましたが、その法律が撤廃されたことは、現在の新しい調味料へのスタートだったのでしょうか?

(2)ふりかけ文化
日本の高度経済成長時代に登場した“ふりかけ”。食べる調味料をのルーツなのか? はたまた、別の次元のものなのか?
それには、日本の米飯食文化との関係も検討される課題なのではないかと思うのですが。丸美屋のふりかけ、永谷園のお茶漬けの素などを検証してみたいですね。

(3)エスニックブームの影響
だんだんと定着した、韓国料理やタイ料理の辛い調味料とエスニックフーズの流行が、現在の調味料を後押ししたのではないか、という論拠。
同時に発酵系の東南アジアの調味料の進出と、ダイエットの関係を考えてみましょうか。

(4)バブル経済崩壊後の内食
バブル経済が崩壊した後に、家庭で食事を取る人が増加し、それにより米や基本調味料が売れてきた時期がありました。その時家庭で何が起こったのか、そして家庭が居酒屋現象を起こしたのは?

(5)伝統への回帰
食の安全が問われた時期に、日本の昔の伝統的な食文化の見直しがありました。
「日本型食生活」の推進と農業政策の関わりに、化学的ではない食文化の素材と調味料との関連を検討します。

(6)うまみ文化への発信
日本の昆布や鰹節などのうまみだしから、味噌醤油などのうまみ文化が再認識され、現在の調味料の進化に新たなステージをを世界に発信していく、というストーリー展開を検証してみます。

●NHKで「万能だしポット」ご紹介
NHK「おはよう日本」の街角情報で、貝印の万能だしポットが紹介されました。このだしポットは、最初に出しただしポットの進化系で、電子レンジ対応です。番組での情報は下記のHPからご覧ください。


短時間でだしが取れるポット
問い合わせ先:貝印株式会社
電話:0120-016-410
URL:http://www.kai-group.com/jp/




2011年12月17日土曜日

四川料理はなぜ辛いか?(下)

「梅香」に入ると空気中に辛みが漂っていて、思わず「ゴホ、ゴホ」
他のテーブルでも「ゴホ、ゴホ」でもみんな楽しそうに「ゴホ、ゴホ」


結論から言うと、四川料理が辛いのは地域性によるものなのです。
四川は中国の内陸にあり、盆地で夏は非常に蒸し暑くなります。そうすると、さっぱりした味つけではなく、元気が出て食欲が湧く辛い味つけになっていくのです。
さて、その辛さの役割はには2種類あり、「痛」「熱」が複合化されたものなのです。
「痛」には大きく分けて、鼻にくる“ツーン”とした山葵や芥子の辛さと、舌先に“ピリッ”とくる胡椒や唐辛子や山椒の辛さがあります。四川料理は後者の舌先にくる「痛」なのです。

以前、取材で陳健民さんの弟子の橋本暁一料理長にお話を伺った時に、ハルコが「料理する時に辛さの味見をするのですか?」と尋ねたら、「いちいち味見していたら、舌が麻痺して料理が出来ないね。ハハハ」
う〜む、辛さは客を実験台にしていたのか!

蒸し暑い四川地方なので、辛いものを摂取すると代謝が良くなります。“カプサイシン”血行を良くして食欲を増進させ、発汗を促します。発汗による気化熱で体温が下がりますね。
また、辛みの中には殺菌作用があるので食中毒を防ぐ効果もあり、蒸し暑い地域では本能的に辛い料理が求められているのですね。
さらに、人間の脳内には痛みを抑える脳内物質が存在しています。ドーパミン、セロトニン、メラトニンですが、四川料理の中には唐辛子の辛い「熱」や山椒のしびれる「痛」には脳内の快感物質同様に「熱さ」「しびれ」が段々と快感に感じられ、「美味しい」と錯覚して脳を騙す効果があるのではないでしょうか。

厠にて 昨夜食べたる 四川かな
ハルコ心の俳句(これが本当の“しも”の句。……失礼!)

●四川料理の辛さの方程式2

この図はハルコが四川料理の構造を解析しようと作成したものです。
四川料理は単に辛い料理ではなく、料理全体の中で「痺・熱・香・酵・酸」の5つのバランスが取れていることが重要です。辛いだけなら四川料理は日本でこんなに愛されていませんね。