2018年8月21日火曜日

海鮮ちらしの正しくない食べ方!?





鮨は大好きで
それなりのマナーは
守っているのですが、
海鮮ちらしとなると‥‥。













たまにランチに鮨屋で「海鮮ちらし」をいただくのですが、
オクサマからハルコの食べ方の酷さにいつも、いつも、教育的指導が。
正しい食べ方マナーは一応(たぶん)判ってはいるのですがね。

●たぶん正しい海鮮ちらしの食べ方
小皿に醤油を入れて、ワサビは海鮮のタネの上に少しのせて、醤油につけてから
ご飯の上におき、下のご飯(酢飯)と一緒にいただく。
いきなり、真ん中から食べずに、端から順々にきれいに食べていく。
器の桶は決して持たない。
海鮮丼ではないので、あくまでもお造りや鮨の延長としていただく。

これに異はないでしょう。

●絶対間違いのハルコの海鮮ちらしの食べ方
小皿に醤油を入れる(ここまでは同じ)そこに、ワサビを全量投入し
醤油と混ぜ合わせる。
桶の海鮮タネをワサビ醤油に”浸して”ごはんの上に戻す。
これを、ひとつ、ひとつ繰り返して桶の上に並べる。
この工程が全て終わるまで食べないので、同時に食べはじめてた人は
すでに桶1/3くらい食べている。
全部のっけ終わっても、直に食べずに、タネとご飯の味の一体化を待つ。
そして、左手で桶を持ち、一気に食べはじめる。
時にはタネとご飯を”まぜまぜ”してビビンパ風にして食べる。
最後の米粒は、生姜(ガリ)できれいにぬぐって完食。

いやはや、目の前の冷たい視線が‥‥‥。

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2018年8月8日水曜日

ロブションの魂の父、ジャン・ドラヴェーヌ 。



ロブションが亡くなり、
フランス料理の
大きな灯りが消えた。
ロブションの「魂の父」と
いわれたジャン・ドラヴェーヌに
まつわる3つの物語。













ジャン・ドラヴェーヌ(Jean Delavene)は1957年にパリ郊外にブージバルに
「カメリア(Cameiia)」を構え、「シンプルな料理」の提唱をし、
元祖ヌーヴェル・キュィジーヌとも呼ばれていた料理人。
1963年ミシュラン1つ星、1972年には2つ星で「ゴーミヨ(GAULTMILLAU)」でも
高く評価されていた。
そして、1985年に現役を引退したが、1991年にパリのアンヴァリットの近くに
「Regin(レガン)」オープンしたが、半年で閉店し4年後(1996年)、77歳で亡くなった。
ドラヴェーヌはジョエル・ロブションを導き魂の父とも呼ばれた。

1992年の1月にアルザスの「Auberge de  L'ill」で食事をするためにパリから
ストラスブールに向かった。
コールマールで、アルザスワインを代表するのジョス・マイヤーのシャトーオーナ、ジャン・メイヤー氏に迎えてもらい、シャトー(ヴェンセントハイム村)を案内してもらった。
その晩は地元の居酒屋レストラン「Au pont du Corbeau(オー・ポン・デュ・コルボー)」に。
隣の客同士の肩がぶつかるくらいの狭い店で、ハルコはメインに”Tête de Bouf(牛の頭肉)"をオーダー。
これは地元の人気料理で、厚さが1cmもある”トクホン大判サイズ”が4枚分もあり、
付け合わせのジャガイモはタマネギや香草のたっぷり入った酸っぱいソースで食するも、
量が多すぎてギブアップした。

「Auberge de  L' ill」訪問も終わり、アルザスからパリに戻り、友人のフランス料理シェフ(坂田幹靖氏)と左岸アンヴァリット近くで待ち合わせて「Regin(レガン)」に。
昼時なのに客は老人二人とハルコ達のテーブルのみで、ちょっと寂しい感じ。

オードブルは“温かなジャガイモとタラのエストラゴン和え”で、
アントレはアルザスでも食べた牛の頭の肉をまたまた見つけ、“Tête de Veau"(こちらは仔牛)をオーダーした。
アルザスの料理に比すると繊細な味わいで、旨く満足(が、この時ある事に気が付いていなかった)。
坂田氏がメートル・ド・テールにドラヴェーヌさんはいないのかと聞くと、なんと、二人の老人の一人が本人だった。

ドラヴェーヌさん一緒に記念撮影をして、当日のカルトにサインまでしてもらったが、レガンはわずか半年に閉店。
今,思うと本当に歴史的なシェフとの奇跡的な出合いだった。

フランスから帰ってきた最初の日曜日に、横浜中華街でランチを食べに。
選んだ料理の一つが“冬瓜と蛙の炒め物”で、一口、口に入れた瞬間あっ、と思った。
「この食感、味…。うむ、最近どこかで食べたような気がする」
はた、と思い出したのは、1週間前にパリの「レガン」で食べた“Tête de Veau(仔牛の頭肉)"で、確かにどちらもゼラチン質が多く、似たような感じだった。
が、どうも腑に落ちない。なんだろう、この不思議な胸騒ぎは……。
判らない思いを抱きつつ、ドラヴェーヌさんのことも味のことも忘れてしまった。

だいぶ経ったある日に、『食の味、人生の味 辻嘉一 小野正吉』(柴田書店)という
対談集を読んでいた。
ご両人とも故人だが、辻嘉一(1988年没)は京都の懐石料理店「辻留」のご主人。小野正吉さ(1997年没)は、ホテルオークラの名総料理長。非常に面白く含蓄のある本だった。

その中の項目に、ジャン・ドラヴェーヌが登場していた。
小野正吉がジャン・ドラヴェーヌさんををオークラに招いた時の話で、
NHKの「今月の顔」という番組にジャン・ドラヴェーヌが“味の大使”というキャッチフレーズで来日しており、オークラでドラヴェーヌファエを開催。

さて、その対談に小野正吉が「ドラヴェーヌさんが、オークラに来たときにね、中国料理の「桃花林」で、二日でも三日でも働かせてくれって、白い服持って来て調理場に入ったんですよ。彼らは香港・中国にも行っているようですしね」
この部分で、何だか判らなかった輪が完結したのだ。

アルザスの“牛の頭肉”から始まり、ドラヴェーヌの“仔牛の頭肉”に行き、そして、横浜で食べた“冬瓜と蛙”がフランス料理から中国料理へとヌーヴェル・キュイジーヌで融合したのだった。
この『食の味 食の人生』に巡り会えなければこの謎は解決出来なかったという話。




2018年8月6日月曜日

「珈琲に玉子の殻」明治時代の廃物料理法





100年以上前の
日本人も一般常識として
こんな知識を
持っていたという話。














明治時代に村上弦斎という小説家がいて、彼の書いた『食道楽』は
徳富蘇峰の『不如帰』と並んで大ベストセラーになっていた。
内容は小説の形を取りながら、物語の筋に600以上の料理や食材が
はめ込まれていて、『報知新聞』の人気連載小説だった。
現在手元にあるは岩波文庫版『食道楽』(上下)で、中身を読んでいると、
日々連続の連続で、ブログを読んでいる感じなのだ。

この本にある料理の原型の記載があるので目次を追って行くと「第十四 廃物料理」。
明治38年(1905年)と100年以上前の日本でこのような知識を
持っていたとはちょっと驚く。

箇条書きにすると、
・満腹で消化を助ける化学的な方法として、果物(りんごの淡雪)を食べる。
・牛肉をやわらかくするためにパイナップルの汁をかける。
・心太(ところてん)を食べて黄な粉を舐めると心太が溶ける。
そして、りんごの淡雪の作り方には、「りんごを切って、砂糖を少し入れて、
「蛍火(とろ火)」で熱して汁を出して、やわらかくなったら裏ごしして汁を
ゼラチンで固めると。
「ゼラチンは?」という問いに「西洋膠(にかわ)」のことだと。
そして、珈琲を美味しくするには、玉子の殻を捨てずに取っておき、
珈琲を煎じる時に、殻を混ぜてよく砕いて、
搔き混ぜると珈琲のアクが殻についてL濾さずに茶碗に注いでも
黒い粉が出ずに,味も淡泊になり美味しいと。
(殻に残っている白身が及ぼす作用で、フランス料理では灰汁抜き
「ブランシール」に卵白を使う)

100年以上前に現在でも通用する調理科学を、村上弦斎は知っていたのだ。
もう、一度読み直してみよう。(完璧に忘れていた)
2012年に「職業としてのフードライター」というタイトルで村上弦斎のことを
書いており、ご興味有る方はこちらからも。
http://otetudaiharuko.blogspot.com/2012/11/4_22.html

2018年8月2日木曜日

煮物を真っ黒にしてオクサマに叱られる!






あぁ、全て暑いせぃだ!
と、料理の失敗を
暑さのせいにするハルコ












ごぼうが4本あり、オクサマに命じられて
半分をきんぴらごぼうに、甘酢を作り
一部を酢ゴボウ(ピクルス風)にして残りを煮物に投入。
しかし、料理が真っ黒になってしまった。

まず、きんぴらごぼうを中華鍋で作り、普段は煮物はストーブ鍋を使うが
面倒でそのまま中華鍋で作ったのだ。
ごぼう、ニンジン、コンニャクと鶏肉のシンプルな筑前煮風で、
だしは、野菜の皮などから抽出したホールフードを使い、
調味料はごま油が欠品していたので、オリーブオイルに鷹の爪を刻んで馴染ませて、
湯通した材料を炒めて、味醂、砂糖、塩を加えて、仕上げに醤油をかけまわしたのだが、
段々、料理が黒ずんできたのだ!
完成するとまるでイカスミで作ったように、ちぎりコンニャクと鶏肉の区別もつかない。

恐る恐る、オクサマに出すと
「何、この真っ黒な料理は!」
チコちゃんなら「ぼーっと料理作ってんじゃないよ!」
と叱られるが、オクサマは「ハルコ料理が前より下手になった」と。
しかし、食べてみると味はいいのだが、真っ黒じゃね。

真っ黒になった理由。
ごぼうはポリフェノールの一種であるタンニンを多く含む食材で、
鉄の中華鍋の鉄分とゴボウの加水分解性タンニン酸と化学変化を起こし
真っ黒になり、さらに他の食材にも影響した。
さらに、きんぴらごぼうを作った油で調理したのでタンニン酸はさらに
強く出たものと推定される。

以上現場からの報告でした。

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2018年8月1日水曜日

谷昇「塩・胡椒、塩と胡椒は全然違う!」




あさイチに
ル・マンジュ・トゥーの
谷昇シェフが登場していた。
塩・胡椒と
塩と胡椒の違いは?










青山に「ビストロ・サバス」が出来た頃だから
谷さんとの付き合いはかれこれ30年近くになる。

一人の料理人の料理の変遷を観ていたと同時に
谷さんから教わることも多かった。
その中で、谷さんが同じことを何度も繰り返している
調理法をのひとつを考えてみる。

『食彩浪漫』というNHKの番組に出てた時に、
「ここで、塩、胡椒をするんでね」という問いに
谷さんは「今、塩、胡椒といいましたね」と。
レシピでは、塩・胡椒はひとつのものとして書かれているのがほとんどだが、
「塩と胡椒は役割が違うので、一緒にしてはダメなのです」
塩は味、胡椒は香りで。味は最初に。胡椒は仕上げに香りとして使うと。

あさイチで鶏料理を作っていた時も、鶏肉皮目に塩をしても味が入らない
身の方に塩をして、身から焼き,胡椒は仕上げふる。
塩、胡椒を同時にすると胡椒は熱で焦げて、香りが無くなる。

この話は、谷さんから何度も教え込まれたメソッドなのだが、
世の中のレシピ本の多くは、塩。胡椒をして‥‥‥‥と。
レシピを見る度に、悩ましい話だ。

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2018年7月30日月曜日

豆腐は糸で切る!?






豆腐の切り方は
簡単なようで
けっこう難しい。












司馬懿(しばい・字は仲達)を主人公にした三国志劇を観ていた
厨房のシーンに、一瞬だったが不思議な調理法に目にとまった。
豆腐を糸で切っているのだが、「あやとり」の要領で
両手の指に糸を平行にかけて上から糸で切り落とす方法だった。

時代は紀元前200年の頃で、この時代には豆腐の原型は出来ていたはず。
その豆腐は、軟らかい「豆腐」、硬い「老豆腐」押豆腐の「豆腐干」なのか。
はてまた、豆腐ではなく、牛乳を発酵させた「蘇(そ)」なのか。
いや、蘇は三国志の後の遊牧民族の侵略以降なので考えられないか。

どちらでも良いのだが、気になったのは糸で食材を切るということなのだ。
チーズカッターの中には金属ワイヤーを使って切る道具があるが、
古代人が同時に同じ大きさに切る方法を考えていたのだろうか。

さて、その豆腐の切り方だが、軟らかく崩れやすために、
手のひらの置いて切る人も多いだろう。
以前、雑誌の連載で現在は店は無いが、江戸料理の第一人者
「大塚・なべ家」福田浩さんに豆腐料理を教わりに行ったことがあった。
豆腐料理といっても江戸時代には『豆腐百珍』という豆腐尽くの本も有り
大変奥深い世界なのだ。
習った料理は「豆腐粥」で豆腐を5㎜角の「あられ切り」をするという
かなり高度な技術を必要とするもので、福田さんは中国製の
小さな中華包丁を取り出して切っていた。
福田さん曰く「中国土産に頂戴したが便利で手放せない」と。
江戸料理の碩学者も絶賛していたのだった。
この包丁は薄刃で平で切った豆腐もそのまま鍋に入れられるという
優れものだったが、和包丁の菜切りよりもかなり薄く硬いものにはむいてない。
豆腐の賽の目切りの器具も商品化されて売っているが、
5mmはどう考えても不可能なのだ。
後日、この中華包丁をヒントに脇屋友詞シェフの中華包丁の
商品開発をハルコが行うが、これは別な話。

偶然観た、糸切りで何か開発が出来ないものだろうか。

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2018年7月27日金曜日

田辺年男・山と海、ときどき猫





岩手に
ヌキテパの
田辺年男シェフと
ハルコは
何をしに行ったのか?












猛暑40℃の東京を離れて、一路東北へGO!
釜石線に乗り換えて遠野まで、
遠野では、岩手の放送局のカメラが待っていた。

話は今年の2月に遡る。
仕事場の移転先を捜していた最中に
久しぶりにヌキテパへ行って、
田辺シェフとマールを呑みながら、四方山話。

その頃、浅草観音裏の「ペタンク」のレシピ本を制作中で、
ペタンクの山田武志シェフが、煮干入りのバター「にぼバター」を
『GQ』の誌面で紹介することになり、
田辺シェフらに「にぼバター」の料理共作を依頼されたと。

その時に、ハルコは閃いたのですぞ。
以前から海藻を使ったフランスのブルターニュバターの
日本版を作りたくて、各方面へ打診していたのだ。

田辺さんへ海藻バターの話をすると、速攻で面白との返事。
フレンチの世界で魚を扱わせさせてたら田辺年男の右に出るものはいない!

そうだ、田辺さんと海藻バターを作ろうと決心し、
仕事場を移転して少し落ち着いた頃に、釜石市で世話になっている
「釜石大槌産業育成センター」に連絡をし、
田辺シェフを三陸にお連れして、是非、海藻バターを一緒に開発しませんかと。

田辺シェフと日程を調整しているうちに、釜石市長とも面談することになり、
さらに、田辺シェフの後輩のオリンピックメダリストが
食事に来た時に、シェフが岩手で海藻バターを作るという話をしたところ
一緒に食事されていたのがテレビ局の方で、最近岩手の放送局の役員に
なり、その夜のうちにテレビ取材が決まってしまい、
冒頭の遠野駅に繫がったのである。
遠野では、バターを製造する牧場へ見学にいったのだが、牧舎の中に
猫がいて田辺さんへ甘えてまとわりつくのであった。
名前を聞いたら、無いそうな!

つづく

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